燕山夜話

「燕山夜話」について

「燕山夜話」の書名や作者の鄧拓(1912~1966)は文化大革命の初期に毛沢東・林彪・四人幇からの批判の対象としてセンセーショナルに報道されました。「大毒草」とされた書名や著者の名前だけが独り歩きをし、文革の嵐のあとは振り向かれないままでした。鄧拓の名誉回復のあと1979 年に北京出版社から丁一嵐(作者夫人)の前書きを付けた形で、「燕山夜話」の再版がなされました。全五集150 余編の文章を一冊の本として編まれ、知的な風貌の写真と肉筆の自序が巻頭にあります。
福州に生れ、早くから党員活動を行い、解放区に入ってからは新聞発行や情宣活動に従事。新中国では「人民日報」
の責任者になるも、大躍進政策前後から毛沢東との関係が微妙に捻じれていったようです。その中で、夕刊紙「北京晩報」に「燕山夜話」と題したコラムを馬南邨の筆名で連載(一説には毛沢東の慫慂)して好評を博したことが「右傾批判」の材料にされました。題材は歴史・文学から地理・天文・農業・民俗・風水など多岐に渡り、多くは古文を巧みに引用して同時代の政治や社会を諷刺しています。(井上邦久)

訳者ご紹介

1935年生まれ。1957年 神戸市外国語大学中国語科卒業。中国友好商社に勤務後、豊田通商に入社。66―77年シンガポール・マレーシアに11年間駐在し、マレーシア華人らとのビジネスを通じて華人経営を学ぶ。
日本に帰国後、中国担当となり79−80年同社の初代北京事務所長。その後、中国・香港台湾地域担当部長を経て95 年定年退職。95−97 年同社嘱託を経て97 年に貿易商社「神陽貿易(株)」を設立し代表。
中国貿易のほか、トヨタ自動車系の部品会社の中国進出を支援、天津に日本料理屋を経営するなど多岐にわたる活動をしてきた。
ビジネス以外では幼少の時から書道を続け中国独自の筆法を会得。中国古典の研究を続け、自宅で中国古典、書道の勉強会を主催しているほか、中国古典講読会の講師を務めている。(斎藤 治)

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