航海と造船
祖国の航海と造船業の歴史に関心があり、生徒と一緒に勉強したいが、関係書籍や参考資料がなかなか見つからない。こんな手紙が一人の教師からきた。我が国の航海と造船の歴史資料が、長期にわたり出版されずに放置されるはずがない。これはなにかわけがありそうだとピンときた。
書店や図書館に問いただしたら、『航海術』、『航海学』、『造船』の技術冊子など数種類が出版されているが、時期は解放前後のことで、内容も外国材料を扱ったもので、中国歴代の航海と造船業を紹介するまともな書籍は一冊もなかった。
昔の人は、中国は大陸国家で航海事業が発達しなかったと思ったのか。祖国の海岸線はたいへん長いので、海洋と関係なしではすまされない。しかも我が国の領土は広大で、至るところに河川湖沼があり、大船小舟が頻繁に往来し、造船業には更に長い歴史がある。羅針盤は航海に必須であるが、それは指南針の応用で、指南針の発明は中国人である。このように、話が航海や造船の歴史になれば、なんといっても最古の歴史は中国にある。
事実はまさにこの通りである。我々の祖先は早くから各種の船を製造することが出来た。中国歴史博物館に行って観ればわかるが、丸木舟が原始社会にすでにあった。『詩経』の『小雅』にも“汎汎たる楊舟, 紼纚之を維(つなぐ)”という句がある。古代人は、楊柳を削って船をつくることを知り、しかも縄を編んで船をつなぐことも知っていたことが、これより明らかだ。この小舟の類が長い期間をかけて発展し、種類と名称がどんどん増えていった。それらの船は全て河川湖沼における航行や戦に用いられ、航海に使われる大船は“海舶”と呼ばれた。海洋船は河川、湖沼を航行する“站船”(一種の官船)、“漕舫”(一種の貨物船)、及び水上戦用の濛艟戦船等から次々に発展したものである。
しかし、このことは初め外航船がなかったと云うことでない。晋代の王嘉の『拾遺記』の記載によると“(秦)始皇は神仙の事を好む。宛渠の民あり、螺舟に乗り至る。舟形は螺に似て、海底に浮沈し、而して水浸入せず、一名は淪波舟なり。”[秦の始皇帝は神仙にかんすることに興味を持った。宛渠の民が、螺舟という船にのりやって来た。舟の形は螺貝の形状に似て、海底に浮沈することが出来た。その船を一名淪波舟という。]これは早期の潜水海船の一種である。
古代の航海は危険を伴ったので、戦にでるより危険なことと思われた。だからその頃は、航海船の製造よりも戦闘船の製造が多かった。『三国演義』を読んだことのある人はご承知の“赤壁の戦”は、まぎれもなく大水上戦であった。三国曹氏の魏とこれを継ぐ司馬氏晋朝は、その前後に巨大な力を動員して戦船を造船した。『晋書』『王濬伝』の記載によると、“武帝呉を伐たんと謀り、濬に詔して舟艦を修せしむ。濬乃ち大船を作り、舫を連ね、方百二十歩、二千余人を受く。木を以て城を為し、楼櫓を起こし、四の出門を開き、その上みな馳馬の来往を得。……舟櫂の盛なること、古よりいまだ有らず。”[武帝が呉を征伐しようとして、濬に勅を下して大型船を造らせた。濬は大型船を造るのに、舫という軽舟を連ね、その一辺が百二十歩(歩=5尺)の長さで、2000人を乗せることができた。船上には木で城を築き、やぐらを造った。出入りに四ケ所の門を開き、乗馬で乗り降りした。‥‥‥その船こぐ櫂が並んだ姿、それは見事であった。] これより分かることは、この種の戦船の規模は、通常の外航船をはるかに上回り、比較の対象にならなかった。
隋の煬帝の頃になると、造船の規模は更に拡大した。『隋書』『煬帝本紀』によれば、“大業元年三月、……龍舟、鳳艒、黄龍赤艦、楼舟等数万艘を造る。”とある。また宋代の劉義慶の『大業雑記』に拠れば、煬帝が江都を行幸した時に乗った龍舟を描写して、その規模は、“高さ四十五尺、闊五十尺、長さ二百尺。四重(ちょう)なり。上一重に正殿、内殿、東西朝堂あり、周に軒廊を以てす。中二重に一百六十の房有り、皆丹粉を以て飾り、金碧珠翠を以て粧す。彫刻は奇麗たり、流蘇羽葆、朱絲網絡を以て綴る。下一重は長秋内侍及び乗舟水手、素絲大条縄六条を以て、両岸に引進す。”[高さ45尺(約13.5m)、巾50尺、長さ200尺あった。4階建で、最上階は正殿、内殿、東西に朝堂があり、軒廊で周りを囲んだ。中階には160部屋があり、丹粉を塗り、紺碧珠翠で飾られ、珍しい彫刻、それに加えて房や羽飾り、朱の紐細工で装飾された。下の一階は、長秋内侍と水主が乗り、絹でできた大綱六本で、両岸から舟を引いた。]
この外、まだ朱鳥航、蒼螭航、白虎航、玄武航各二十四艘あり、また青鳧舸、凌波舸各十艘、また五楼船五十二艘、三楼船一百二十艘、二楼船二百五十艘、黄篾舫二千艘、及びその他各種小船があり、船の名前が繁雑であった。当時、船首と船尾が相つながり二百余里に及び連綿と絶えることなく見渡す限りゆらゆらとまことに壮大であった。
唐代造船業も大変発達した。『冊府元亀』の記載では、“梁成汭は唐末に荊南節度使となる、時に鄂州の杜洪、淮南楊行密に襲わる所となり、汭出師して之を援く。一巨船を造り、三年而して成り、号して和載艦と曰ふ。上は庁、所、司、局を列せしめ、府署の制あるが若し。また斉山截海の名有り、其の宏廓知るべしなり。”
[唐の末期に梁成汭が荊南の節度使となった。たまたま鄂州の杜洪が、淮南の楊行密に襲われる事件が発生し、汭が兵をだして杜洪を助けることになった。梁成汭は巨舟を建造し、三年して完成した。和載艦と命名した。船内に庁、所、司、局という役職名をつけ、ちょうど行政府が存在するようであった。また斉山截海となづけた場所もあり、その豪華な建造物は量り知ることができる。] 宋、元の両代にまだ多くの同様の記載があるが、当時の造船規模は隋、唐を凌駕するものではなかった。
過去朝代の多くは、航海用の大船を含めて、各種の大船を製造することができた。ここに重要な経験がひとつある、それは、造船業が発展すれば、航海事業も必ずそれに随って発展することだ。この道理を説明するために、歴代の小規模な航海記録を列挙する必要はなく、最大規模の航海事績を挙げことでことは足りると思う。
民間に流伝している三保太監(鄭和)の下における西洋の故事が、最大規模の航海故事に数えてしかるべきであろう。当時の西洋とは、すなわち現在の東南アジアである。1405年、鄭和が率いる艦隊は、蘇州の劉家港を出発し、福州に到着して少し停泊後に南洋群島への遠洋航海に就き、印度支那、ジャワ等の土地を経てセイロンに達した。彼の艦隊は62艘の巨艦を擁し、各艦の長さ四十四丈、広さ十八丈、乗船士卒二万七千五百余人、往復に要した年月は二年余であった。この後、1407年、1409年、1413年、1417年、1421年、1424年、1431年にそれぞれ七回の遠洋航海を行い、合計八回の“西洋下り”を行い、我が国航海史の上に光輝ある数頁を飾ったのである。
けれども、清朝以後、西洋資本主義国家の侵略により、我々の祖国はついに徐々に半植民地と化し、航海事業はその他事業と同様に外国資本の独占する所となり、この状況は国民党反動統治が倒されるまで変わらず、倒れて後やっと局面の変化を見た。
今日、解放された中国人民は、堂々と独立自主により自己の航海事業と造船業を発展させることができる。しかも最新技術を自船に装備することも可能だ。ここまでくるのは簡単なことではなかった。
【語句解釈】
・秦始皇好神仙之事――「神仙の事」、「事」の読みは「こと」、「つかえる」とも読める。
・上列、所、司、局,有若府署之制――上層には所、司、局とあたかも政府役所の制度が置かれている ように(各部屋に名称が付けられていた)。
・又有齐山截海之名――(規模が大きいところから)「斉山が海を截(た)つ」という名がある。「斉山」 は安徽省の山。
・三保太监下西洋――鄭和の字は三保、姓は馬。回族で爺さんに連れられてメッカにも行き、海路を行 く経験があったらし。
・一直到国民党反动统治被推翻了,这局面才改变过来――直訳すると:「国民党反動統治が覆されるまで ずっと続き、この局面がやっと変わった。」日本語にならないから、「一直到国民党反动统治」、「国民 党反动统治被推翻了」と二句に分け、「国民党反動統治」を二度用いるとよい。このような構造が時々 ある。「給」を用いるときも同じ。
【 掲載当時の時代考証と秘められたメッセージ 】
「航海と造船」 ひとそえ
作者は冒頭から「昔の人は、中国は大陸国家で航海事業が発達しなかったと思ったのか」と書いています。航海事業については諸説があるでしょうが、「中国は大陸国家」という見方は多いと思います。
海からの日本人が、大陸では赤い夕陽の大平原が延々と続くことに驚いた頃、中国の背後から入り込んだロシア人は、何処まで行っても山また山が続くと思っていた、と昔の人が書いていたのを思い出します。
中国の海軍創設記念日は1949年4月23日。解放軍が南京を占領した日に、同じ江蘇省の泰州白馬廟で創設宣言がなされたようです。共産党軍に自前の戦艦は無く、国民党軍から奪取した船舶、米軍や旧日本海軍の艦船そして揚子江を渡ったジャンクを寄せ集めた「海軍」と揶揄されてきました。しかし今や自国製の空母や原子力潜水艦を保有する海の強国です。この文章が書かれた1960年代、中国は米国やソ連の脅威にさらされ、海への展開をするゆとりはなく台湾海峡や尖閣列島の波は静かだったと記憶しています。
一時代前、「定遠」「鎮遠」などのドイツ製巨艦を擁した北洋艦隊は、老大国清朝の象徴としてアジアで雄を誇っていましたが、黄海海戦で日本の機動力に敗れ制海権を失っていきます。
その日清戦争で捕虜となった清国兵士の墓が保存されている大阪旧真田山陸軍墓地を上海からの恩師と訪ねました。清国兵の墓前に五星紅旗、煙草、そして航空母艦の写真が置かれていました。保存会メンバーも「十年以上の経験の中で初めてのこと」と驚いていました。寧波生まれの恩師は「愛国主義のつもりなのでしょう」と短く呟かれました。写真の空母はその形状からして中国初の空母「遼寧」(ウクライナから買い入れた旧ソ連の設計)だと思われました。
今回の『航海と造船』の一文は、時系列的に多くの引用文を並べた平板な構成であり、総括と思われる最終段落も作者にしては珍しく通り一遍の切れ味の鈍い文章のように感じられました。
文・井上邦久
航 海 与 造 船 原文
一位教师在来信中提到,他和同学们都很想知道我们祖国的航海与造船业的历史,但是找不到有关的书籍和参考资料。这却使我惊奇,难道这许多年来真的没有出版过我国航海和造船的历史书籍吗?
查问了书店和图书馆,果然只有解放前老早出版的《航海术》、《航海学》、《现代航海学》和《造船》的工程小册子等几种,内容主要是外国的材料,却没有一部完整的介绍中国历代航海与造船业的书籍。
这是什么缘故呢?也许过去的人以为中国是一个大陆国家,航海事业不发达吗?其实,我们祖国有那么长的海岸线,不能不经常和海洋发生直接的关系;而在我国的广大领土上,到处都是江河湖泊,舟楫往来极为频繁,造船业更有悠久的历史。中国人又是最早发明指南针的,航海所必需的罗盘则是指南针的一种实际运用。因此,要讲航海和造船的历史,也应该以中国为最久。
事实的确是这样。我们的祖先老早就会制造舟楫。你如果到中国历史博物馆去参观,就会看到原始社会已经有独木舟了。《诗经》《小雅》也有“汎汎杨舟,绋纚维之”的句子。可见远古时期的人,不但知道用杨木凿成小船,而且知道制造绳索来系船。这类小船经过长期的发展,种类和名称越来越多。它们大都是在江河湖泊中航行或作战用的,至于航海使用的大船,叫做“海舶”,那是由内河内湖航运中使用的“站船”(一种官船)、“漕舫”(一种货船),以及水战中使用的艨艟战船等逐渐发展而来的。
但是,这并不是说起初就没有海船。据晋代王嘉的《拾遗记》载:“(秦)始皇好神仙之事,有宛渠之民,乘螺舟而至。舟形似螺,浮沉海底,而水不浸入,一名沧波舟。”这可以说是最早的一种潜水海船。
古代航海是冒险的事情,甚至被人看成比作战还危险,所以在那时候,制造海船的还不如制造战船的多。看过《三国演义》的人都知道“赤壁之战”,那实际上是一场大水战。三国时的曹魏和后来司马氏的晋朝,先后动员了很大力量建造战船。如《晋书》《王濬传》載:“武帝谋伐吴,诏濬修舟舰。濬乃作大船,连舫,方百二十步,受二千余人。以木为城,起楼橹,开四出门,其上皆得驰马来往。……舟櫂之盛,自古未有。”可见这种战船的规模,比普通的海船有过之无不及。
到了隋炀帝的时候,造船的规模就更大了。据《隋书》《炀帝本纪》称:“大业元年三月,……造龙舟、凤艒、黄龙赤舰、楼船等数万艘。”又据宋代刘义庆的《大业杂记》,描述隋炀帝游幸江都时乘坐的龙舟,其规模是:“高四十五尺,阔五十尺,长二百尺。四重:上一重有正殿、内殿、东西朝堂,周以轩廊;中二重有一百六十房,皆饰以丹粉,妆以金碧珠翠,雕刻奇丽,缀以流苏羽葆、朱丝网络;下一重长秋内侍及乘舟水手,以素丝大条绳六条,两岸引进。”此外,还有朱鸟航、苍螭航、白虎航、玄武航各二十四艘,又有青凫舸、凌波舸各十艘,又有五楼船五十二艘、三楼船一百二十艘、二楼船二百五十艘、黄篾舫二千艘,以及其它各种小船,名目繁多。当时舳舻相继,二百余里,联绵不绝,真是浩浩荡荡。
唐代的造船业也很发达。如《册府元龟》载:“梁成汭唐末为荆南节度使,时鄂州杜洪为淮南杨行密所袭,汭出师援之。造一巨舰,三年而成,号曰和载舰。上列厅、所、司、局,有若府署之制,又有齐山截海之名,其宏廓可知矣。”宋、元两代还有许多同样的记载,不过,当时造船的规模都没有超出隋、唐的了。
过去许多朝代都能制造各种大船,其中也包括航海用的大船在内。这里有一条重要的经验,就是说:只要造船业发展起来了,航海事业也一定会跟着发展起来。为了说明这个道理,我想不必列举历代小规模的航海记载,只要举出最大规模的航海事迹就够了。
民间流传的三保太监下西洋的故事,应该算是最大规模的航海故事。当时说的西洋,就是现在的东南亚。郑和在一四○五年率领舰队,由苏州刘家港出发,到福州稍停后就远航南洋群岛,经印度支那、爪哇等地而达锡兰。他的舰队拥有六十二艘巨舰,每艘长四十四丈,广十八丈,载士卒二万七千五百余人,往返历时两年多。后来在一四○七年、一四○九年、一四一三年、一四一七年、一四二一年、一四二四年、一四三一年又有七次远航,共计八次“下西洋”,在我国航海历史上写下了光辉的几页。
但是,到了清代以后,由于西方资本主义国家的侵略,我们的祖国竟逐步沦为半殖民地,航海事业和其他事业一样被外国资本所垄断,一直到国民党反动统治被推翻了,这局面才改变过来。
今天,解放了的中国人民,完全可以独立自主地发展自己的航海事业和造船业,并且能够用最新的技术来装备自己,这是多么不容易的事情呀!
木下 国夫・藤井義則 校正
燕山夜話 第2集12話(通算42話) 航海与造船