第3集燕山夜話-1 人 穷 志 不 穷

燕山夜話

襤褸は着てても心は錦

 おととい、一人の青年が私に面会を求めて現れ、明代黄姫水編集の『貧士傳』を、白話文に選訳しようと思うが、私に賛成かどうか意見を聞きたいという。私は、それはいいアイデアだと、その場で計画に賛成し、抜粋訳でもよいから早速とりかかるように伝えた。この本が心を込め抄訳、出版され、出来映えが良ければ、次の世代の青少年教育におおいに役立つと思う。
 古代の『貧士傳』が、新社会の青少年に役に立つだろうか。このストーリーに描かれている道理はどれも簡潔明解なものである。現在の青少年は、革命勝利後の新社会に生まれた世代で、被圧迫階級の人々が旧社会でなめた苦しい悲惨な生活を知ることができない、或いは貧困とはなにか全く無知である。万一将来予想しない窮乏に見舞われたら、対処する方法を知らないであろう。故にこの面の教育を青少年に施すことが必要である。
 『貧士傳』には、昔の気骨ある人士の物語が多い。極めて困難な条件下で生活し、悪勢力に囲まれた誘惑の多い悪環境にあっても、崇高な精神を貫き通す気骨ある生きざまが描かれている。諺に云う、“人窮すれども志は窮せず”とは正にこのことで、身が引きしまり、思わず崇敬の念を覚えるのである。
 たとえば、『貧士傳』にはこのような話がある。
「裘を披(き)る公は、吳の人なり。延陵の季子出遊し、 路に遺金有るを見る。公當に夏五月、羊裘を披て薪を負い而して之を過ぐ。季子 公を呼び焉(これ)を取らしむ。公 鑲を地に投げ、瞑目拂手し而して言いて曰く: 子何んぞ之に居ること高くして而して之を下に視るか、貌これ君子而れども言これ野なり。

陳 師道

吾五月に裘を披て薪を負えども、豈遺金を取る者ならんや? 季子其の賢なる者を知り、請い姓字を問う。公曰く: 吾子は皮相の士なり、何ぞ姓字を語に足らん也。遂に去る。」
[披裘公(毛皮の衣を着た公)は、呉の人であった。延陵の季子が、地方に旅行した時、道に銭の入った財布をみつけた。公は、夏の五月というのに、羊の毛皮を着て薪を背負い(合服が買えなかった)、そこを過ぎようとした。季子が公を呼び止め、財布が落ちているから拾えと云った。すると、公は、鎌を地にほりだし、眼を閉じ手を払って言った。子は、わしを上から下に視ている。君子面をして、言うことが野蛮だ。俺は夏五月に皮衣を着て、薪を売り歩く貧乏人であるが、それでも人が落とした金など、拾うものか。季子は、その男が賢者であることを知り、姓名を問うた。公は云った、お前さんは君子を装ったお方だ、名を語るに及ばん。そういって立ち去った。]
 ご覧になって、この披裘公の気骨にすごみを覚えませんか。彼は貧乏とはいえ、正義の労働者で、柴刈りで生計を立てているが、他人の遺留物に眼もくれない。それに反して、季子は明らかに金持ち面をした偽君子で、よこしまな考えがあり、披裘を巻き込み一緒にねこばばしないか、披裘公の腹を探ったのだ。
(拾得者届出義務を逃れるため、季子は自身で拾わず、人に拾わせ山分けをねらう)。
 今では、延陵季子のような輩は、完全に姿を消したかと云えばそうではない。彼らは、旧社会の残滓で、頭の芯まで搾取階級の意識に染まり、封建士大夫の所謂「清高」な精神はおろか、一般人民の気風も持っていない。この人達には、気長に精神改造を施し、実地教育もせねばならない。それより大切なことは、世の中に「人窮志不窮」[窮しても志をたかくもつ]の精神を発揚させることである。漢代の伏波将軍馬援が、「大丈夫為志、窮當益堅」[大丈夫の立てた志は、窮状にあえばますます堅くなる]と述べている。我々は、間違っても「人窮志短」[窮すると志が少なくなる]の落とし穴にはまってはならない、これほど悲しくて恥ずかしいことはないからである。
 「人窮志短」という言葉は、仏世界に伝わる故事からでたものだ。宋代の名僧、慧明が書いた『五灯会元』という書にこう記されている。
 “或問法演:祖意教意, 是同是別? 演曰:人窮志短,馬瘦毛長。”
 [ある人が法演に問うた。仏祖の意と仏教の意は、同じか別ですか。 法演答える。人は窮すれば志が短くなり、馬は痩せると毛が長くなる。]
この句は、単にものの喩にすぎず、深い意味は存しない。法演和尚が、この比喩を用いて、仏教の基本的教義と教祖がなした解釈の関係を述べたもので、人が貧すれば志が少なくなるのは、ちょうど馬が痩せれば毛が長くなることと同じと云ったのである。この比喩が適切であると云えないが、宋代の詩人陳師道も、「人窮令志短」[人が落ちぶれると志を小さくする]という句を用いて居る。只これで陳師道の真の思想を表わすことなどとてもできない。
 陳師道は大変気骨のある人物であったことは、ご存じの通りだ。彼は小さい時から強い精神力で勉学に努めた。後に王安石の経学理論に不満を抱き、科挙試験を受けようとはしなかった。蘇東坡の推薦により徐州の教授になり、後に召されて秘書省の正字になった。『宋史』は、彼を評して「高介にして節あり,安貧に安んじ道を楽しむ」[高潔にして節あり、貧に安んじ道を楽しむ]と書いているが、彼は五十歳を待たずしてこの世を去った。
 彼が亡くなった理由がふるっている。陳師道は平素赤貧で冬の綿入れを持っていなかった。ある日郊外の祭祀に出かけることになったが、ちょうど真冬であった。妻が綿入れを借りて来たが、彼は、それは趙家からの借り物にちがいないと思った。平素から趙を嫌っていた彼は、その綿入れを羽織ろうとはせず、遂に凍え死んだ。
 清貧の人士がすべて善人とはいえないが、貧乏な人が勤勉で、正義感にあふれ、しかも気骨があるなら、貧乏もまんざら捨てたものではない。これを良い手本としておおいに学ぶ価値がある。

訳・北 基行

【 掲載当時の時代考証と秘められたメッセージ 】

「人穷志不穷」ひとそえ

 第3集に入った初っ端なので難しく捻った話を控えたのか、実に分かり易い内容です。さもしい心根の似非士大夫と己の生き方にブレのない野人の比較の妙を感じます。
 野人とは純朴な人を意味することもありますが、官に就かず、或いは官から離れて民間に下った人を指します。
「虎を野に放つ」という表現も様々に使われます。
朝の連続ドラマで画期的な出来栄えと評判の「虎に翼」が終わり、寂しく思っています。ただ良く出来たドラマに一点の疑問があり、「虎に翼」というタイトルを付けた作者の意図が不明です。
 韓非子・難勢第四十「故に周書に曰く、虎の為に翼をつくること毋かれ、将に飛びて邑に入り、人をとりて之を食らはむとす、と。」
                    (明治書院 ・ 新釈漢文大系 : 韓非子(下)竹内照夫著)
 不肖 (不賢・不才) の人間に権勢を持たせると世が乱れることを戒める喩えとして、 虎 (権 力者) に翼 (権勢) をつけて、 乗せてはならないとしています。

文・井上邦久

人穷志不穷 原文

 一位青年学生前天来看我,谈起他有一个打算,想把明代黄姬水编的《贫士传》选译成语体文,问我赞成不赞成。我觉得他这个想法很好,当时就表示完全赞成,希望他早日着手选译。我认为这部书如果有人精心加以选译出版,把它弄得好好的,这对于我们后一代的青少年将有很大的教育意义。
 为什么古代的《贫士传》对于我们新社会的青少年会有益处呢?这中间的道理很简单。正因为我们的青少年出生于我们的革命已经取得了伟大胜利的新社会中,他们将很难了解旧社会里被压迫阶级所过的穷苦生活,他们甚至将完全不知道贫穷是什么回事,将来他们万一遇到某种意外的穷困,恐怕会无法应付。因此,在这一方面给他们一点教育是十分必要的。
 从《贫士传》中可以看到,古来许多有骨气的人,虽然在非常穷困的条件下生活,周围又有恶势力对他们进行威胁利诱,但是,他们坚定不移地表现了崇高的气节,真是象俗谚说的“人穷志不穷”,不能不叫人肃然起敬。
  例如,《贫士传》中有一个故事说:
  “披裘公者,吴人也。延陵季子出游,见路有遗金。公当夏五月,披羊裘负薪而过之。季子呼公取焉。公投镰于地,瞑目拂手而言曰,子何居之高而视之下,貌之君子而言之野也。吾五月披裘而负薪,岂取遗金者哉?季子知其为贤者,请问姓字。公曰:吾子皮相之士,何足语姓字也。遂去。”
 你看,这个披裘公多么有骨气啊!他虽然很穷,然而他是真正的劳动人民,依靠自己打柴过日子,决不肯去拿别人遗失的钱财。而那个季子显然是为富不仁的伪君子,他竟敢以自己肮脏的思想,去揣度披裘公,企图使披裘公跟他一起同流合污。
 象延陵的这位季子之流,现在还没有完全绝迹。他们是旧社会的渣滓,满脑子是剥削阶级的思想意识,不但毫无劳动人民的气味,甚至连封建士大夫的所谓“清高”思想也没有。对于这种人,一方面固然可以耐心地加以改造,另一方面还必须给以实际的教训。当然,更重要的还在于我们大家要进一步普遍发扬人穷志不穷的积极精神。我们要象汉代伏波将军马援所说的:“大丈夫为志,穷当益坚。”我们决不能堕入所谓“人穷志短”的可悲可耻的陷阱中去。
 本来所谓“人穷志短”这句话,是从佛教的故事中传出来的。查宋代的著名僧人慧明,在《五灯会元》这部书中写道:
  “或问法演:祖意教意,是同是别?演曰:人穷志短,马瘦毛长。”
 可见这句话最初不过是一个比喻而已。法演和尚用了这个比喻,来说明佛教的基本教义和佛祖的具体解释的相互关系,就好象人穷则志短、马瘦则毛长一样。这些比喻当然未必都很确切。至于宋代诗人陈师道的诗,虽然也用了“人穷令志短”的句子,这却完全不足以证明陈师道的真实思想。
 谁都知道,陈师道本人是很有骨气的。他从小就表现了坚苦顽强的精神,勤奋力学,后来因为不满于王安石的经学理论,坚决不肯应试。苏东坡推荐他为徐州教授,后来被召为秘书省正字。《宋史》写他“高介有节,安贫乐道”,年纪不到五十岁就死了。
 他是怎么死的呢?原来他平日非常贫苦,冬天没有棉衣。有一次参加郊外祭祀,刚好是冬天。他的老婆给他借了一件棉衣。他知道棉衣是从一个姓赵的家里借来的,而他又很讨厌那姓赵的,就坚决不肯穿,终至受冻而死。
 我们虽然不能认为,凡是贫穷的人,就一切都好;但是,贫穷的人如果是勤劳的、正派的,而且是有骨气的,那末,这些好样的就值得我们学习。

木下 国夫・藤井義則 校正

燕山夜話 第3集1話(通算60話)「人穷志不穷