燕山夜話三集「作者的話」拙訳と略年表
井上邦久 訳と文
近来有些朋友,十分关切地向我探问:《燕山夜话》的写作计划如何?个人时间如何支配?这使我感到很惭愧,怎么回答这样热情的询问呢?
昨今みなさんから、とても懇切に『燕山夜話』の執筆計画は?個人の時間配分は?という問い合わせをいただく。私はとても恥ずかしく感じるが、こんな熱心なお尋ねにどのように応えたものやら?
說老實話,我平生最大的缺点,就是不善于做计划。写文章也是一样,简直没有什么计划。我很羡慕,许多报纸、刊物的编辑部,以及许多著名的作家,据说他们都有详细的选题计划。并且有的人还根据选题计划,制定阅读资料和写作的进度表。每月有月计划,每年有年度计划。一切按计划办事,到时候要按计划检查总结。这一套做法当然有许多好处,可惜我没有养成这种习惯,一时还做不来。
正直なところ、平素から私の最大の欠点は、まさに計画性になじまないことなのです。文章を綴るにしても同じで、計画はまるでないのです。私が羨ましく思うのは、多くの新聞や行物の編集部や多くの著名作家には、一様に詳細な選定計画があるらしいことです。併せて選定計画に基づき、資料閲読と執筆の進捗表までも作る由。月毎に月間計画、年毎に年度計画があり、すべて計画で事が進み、時期が来れば計画通り検査総括をする。このパッケージは当然多くの利点がありますが、惜しむらくは私にはその習慣がないし、すぐにはできないことです。
我的做法基本上是无计划的。除了在报上发表的日期固定的,这一点算是按计划的以外,从我个人方面说,全部过程差不多都没有计划。我常常想到、看到、听到一些东西,觉得有了问题,随时就产生一个题目;每一个题目有关的材料和观点,只能利用工作之余的一点时间,就自己现有的水平,有什么写什么;写的时候,基本上是按照自己的思维过程,用文字表达出来。这个写法,似乎自己的写作比较方便,而读者在阅读的时候,随着这个思维过程,好像也更容易体会问题的来龙去脉。
私の流儀は無計画が基本です。新聞掲載日が固定され、この一点が計画と言えば計画ですが、その他の個人の領域では、全工程がほぼ無計画同然です。 常々想い、眼にして、聞こえてくる種々に、感じるところがあれば、そこで一つのテーマが自然に出てきます:一つのテーマに関する材料と観点ごとに、業余の時間の許す限り、身の丈にしたがって、徒然に綴ります;書くときには、自らの思考過程に照らして、文字表現することを基本にしています。この書き方は、自分にとっても便利だし、読者が読むときにも、この思考過程に随うことで、テーマの経緯脈略がより追体験しやすくなるようです。
至于平日工作、读书及其他生活上的具体安排,就跟大家一样,简直“乏善足述”。如果再要勉强说上一点,那就是要抓紧时间,尽量不要浪费时间,能多做一些事情总比少做一些事情好啊!但是,当着一件事情正在进行的时候,必须聚精会神把这件事情做好,特别是对于自己本职的工作,一定要集中精力去做,不要分心。做好了一件事,然后再去做另一件事。
平素の仕事、読書や生活上の具体的な按排については、皆さんと同じで、「乏善足述(無為の明け暮れ)」です。もしも一点の強弁をするならば、それは時間を有効にし、できるだけ時間を浪費せず、少なく事を成すよりも、多くの事を成せれば善しとしたい!但し、一つの事を行っている時には、一意専心で事を成すべきであり、とりわけ自分の本職の仕事に対しては、別して精力を集中して事に当たり、気を散らしてはならない。一つの事を成し終えてから、別の事に向かうべきです。
对于我这样一个不懂得计划的人,谈起研究学问等等大问题,缺点和错误在所不免。趁着《燕山夜话》第三集付印的时候,我愿再一次向亲爱的读者同志们提出要求:希望大家多给我提问题,并且对我的文章中任何观点和材料,发现有不正确的,就要来信批评,使我有机会改正一切可能产生的缺点和错误。
马 南 邨 一九六二年三月二十五日
私のような計画音痴の人間には、研究学問等々の大テーマを説かれても、欠点や間違いだらけとなります。『燕山夜話』第三集の印刷に際して、私はもう一度親愛なる読者同志たちに要求を届けたい。皆さんから多くの課題を出して貰い、私の文章のいかなる観点や材料に対して、不正確な点があれば、手紙で批評をしてください、そして生まれ出ずる惧れのある欠点や過ちの全てを正す機会をください。 馬南邨 1962年3月25日
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鄧拓関連の参考年表(未定稿)
1937年9月 晉察冀(山西省、察哈爾省、河北省)根據地に入る。鄧拓と改名。
同時期、毛沢東は延安にて「実践論」「矛盾論」講義
1938年4月 鄧拓が責任者となり《晉察冀日報》の前身《抗敵報》発行開始
1945年5月 鄧拓の責任編輯により《毛澤東選集》第一巻出版
1948年6月 《晉察冀日報》は晉冀魯豫(山東省、河南省)《人民日報》と合併
1949年1月 国民党政府、広州遷都。蒋介石、総統辞任。解放軍、北京入城
2月 彭真、趙毅敏らと《人民日報·北平版》創刊号発行
1952年6月 範長江が人民日報を離れ,鄧拓が総編集員となり人民日報を全面統括
1956年5月 毛沢東、陸定一宣伝部長「学術研究における百家争鳴」を提唱
1957年6月 《人民日報》に《要反對保守主義,也要反對急躁情緒》等の論説で,
“書生辦報,死人辦報”(書生新聞・死人新聞)と批判され鄧拓は社長職に降格
1958年5月 大躍進運動 7月 人民公社運動 8月 国府支配下の金門島・馬祖島砲撃
8月 北京市委書記處書記に任命される
1959年4月 毛沢東、国家主席辞任、後任主席に劉少奇、副主席に宋慶齢・董必武就任
6月 各地で大水害発生、災害は1961年にかけて続き食糧危機から飢餓発生へ。
ソ連「国防新技術についての協定」破棄通告
廬山会議にて大躍進/人民公社運動を批判し、軍備近代化を要求した
彭徳懐国防部長らが解任された
1961年3月 《北京晚報》の要請に応じて,“馬南邨”の筆名で《燕山夜話》コラム執筆,
古今に通じた含蓄溢れる文章の中で大躍進運動への尖鋭的批評を行い,
併せて。彭徳懐らへの公正な評価を暗に求めた。
1966年3月 毛沢東は杭州にて康生、江青らと協議し,《三家村札記》《燕山夜話》が
反党反社会主義的であると名指し批判した
4月 《北京日報》は《關於“三家村”和〈燕山夜話〉的批判材料》を掲載し鄧拓ら
“三家村”を公開批判した。文章發表後,鄧拓は停職、在宅檢查対象となった。
5月10日,姚文元は《評“三家村”——〈燕山夜話〉和〈三家村札記〉的反動本質》で鄧拓、吳晗、廖沫沙の文章は“言葉を尽くして策を講じた「計画的、組織的な反党反社会主義的大進攻」であると批判。
1966年 多くの批判に遇った鄧拓は5月18日,睡眠藥を服して自尽,享年54歲
1979年 中共中央,中共北京市委は“三家村反党集団”の冤罪を覆し、名誉回復を正式決定
※『中国近現代史』小島晋治・丸山松幸(岩波新書)、『毛沢東 その詩と人生』武田泰淳・竹内実(文藝春秋新社)、百度百科「鄧拓」を参照。
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「ひとそえ」
『燕山夜話』全五集の原文・日本文訳出の掲載も第三集に入ります。第三集編集発行に先立って書かれた「作者的話」の原文と拙訳そして作者に関する略年表をそえます。
抗日戦争から国共内戦の時期に、鄧拓は河北省を中心とした根拠地で新聞の発行に従事しています。書斎派ではなく野戦派の体験が長く、執筆や編集にも簡潔に集中力を働かせたことが読み取れます。また、ここで注目したいのは、馬南邨 1962年3月25日という筆名と執筆日です。「燕山夜話」は、1961年3月から1962年9月まで『北京晩報』へ全153編が掲載されたようです。しかし各文章の初出掲載日を調べきれていないことに忸怩たるものがあります。ここで第三集の前書き執筆の具体的な日付が分ることは貴重だと思います。