読書、読書と口先で騒ぐな
読みたければ、本を開いて、真面目に一字一句読めば良い。大騒ぎする必要はなにもない。
読書、読書と騒ぎ立てる人は、幾通りかある。その一つは、立っても坐っても、読みつづけることが出来ない、読書習慣のない人が、読まねばならないと思うので、ついに叫ぶのである。第二種の人は、本を最初から最後まで読むと、いわゆる「死書」に陥ると勘違いしている人。それになりたくないし、ならないぞと頑張り、それで口先で叫ぶのだ。第三種の人は、怠け心があり、こつこつと時間をかけて読むかわりに、一度に多くの知識を得る秘訣を求めて、毎日読書、読書と叫び、本を読まない人達だ。
この三種類の人達は全体からすればごく少数で、切り捨ててもかまわない。でも可哀そうだから、我慢強く助け舟をだし、空呼ばわりを止めさせ、落ち着かせ、真面目に読書させよう。ついでに云うと、この三種の人々に対する対処法はそれぞれ違うので、分類して助ける必要がある。
三種の中で、最も厄介なのは、根っからの怠け者で、打つ手がない。あるとすれば、納得させ、真面目に机に向かわせるのみだ。「錐を以て股を刺す」[錐で太腿を刺して目をさます]もあるが、そこまでやらなくても、なんとか努力が無駄にならぬよう、発憤させる必要がある。なかにはやる気が起こり、「豁然と貫通して」[突然目が覚める]新境地が開ける人もある。唐代の大詩人李白に、「筆に花の生ずるを夢(ゆめみ)る」[筆に花が咲く夢を見た]という故事があるが、まんざら出鱈目とは限らない。類似の話が多くあって、唐代の鮑堅が書いた『武陵記』に、こんな故事がでている。
「后汉の马融は学に勤む。夢に一林の花、锦绣の如きを見る。夢中に此花を摘み之を食らう。寤(さ)むるに及び、天下の文词を見て、知らざる所無し。时の人、号して绣囊(色糸刺繍の小袋)と為す。」[後漢の馬融は勉学に励んだ。夢で林の木々に錦の花が咲いているのを見た。夢にこの花を食べた。覚めると、見るものはなんでも、天下の語彙すべてを知る所となった。人々は彼を『繡囊』(刺繍飾りのある袋)と呼んだ]
馬融が「绣嚢」に一変したのは、一心不乱に勉学に励んだからで、彼が夢に
この花を食べたからではないと述べていることは、明らかだ。
馬融に習って勉学に努力をせずに、この故事を聞いて、夢で花を食うことだけを追求したら、どんな結果が待っているか、お分かりだろう。
怠け者はこれをどう読むか、ねじりハチマキの努力結果とはとらず、多分、あいつはラッキーだ。昔の馬融は夢に花を食らい、目が覚めたら天下の文詞に通じた。それでは、現代の俺様は、科学者に、神奇な方法の発明をおねがいして、脳に注射または一服の薬を盛ると、山積みの本がたちどころに頭に収まるだろう。こうなったら、一朝に多くの知識分子や専門人材を教育できる、なんと素晴らしいではないか。
これは痴人に夢を説く類の話であるから、けっしてこんな考えを起こさないでほしい。これを鑑にして、真面目に読書をする態度がいかに重要であるかを学び取ってほしい。
一字一句に気をいれて最初から最後まで読み通すと、死書だとまた叩かれるのではないか。そういう心配は不要だ。我々が死書と反対するのは、目的が正しくない読書を指しているので、真面目な読書を死書と云っていない。このように理解されているなら、大きな間違いである。多くの人は、まだ本を読んでいないので、死書とか活書とか云う段階ではないのである。
口先だけで大きな話をし、読書などなにもしていないのに、読書議論をする輩がいる。皆さんのまわりにもいると思うが、一日中読書計画を立て、本のリストを作り、人に読書方法を聞きまくり、大変熱心に広範な読書の重要性を説く。ただそこまでで、他人や自分の精力と時間を浪費する結果になる。これだけの費用と時間を、真面目な読書に投ずれば、得る利益は多かろうと思う。
我慢してずっと坐ることができない人は、坐ろうと決心さえすれば、習慣をつけることが出来る。この種の人の病気は軽いから、治りが速い。
一言で申せば、読書を口先で叫んでも、結局は無用無益である。もし何かの知識が必要になれば、図書館に行き関係書籍を探し、この本を買いたくなれば、時間をやりくりして、真面目にはじめから終わりまでじっくりと目を通す。重要な事項を見つければノートに筆記する。このように、自分の必要に応じて、処理してゆけば、すぐに読書の興味を養うことが出来、それを毎日積み重ねてゆけば、知らぬ間に多くの書を読み、多くの知識を獲得できるのである。これを擱いてほかによい方法はない。
訳・北 基行
【 掲載当時の時代考証と秘められたメッセージ 】
不要空喊读书 ひとそえ
読書に王道なし、千里の道も一歩から、という一見真っ当な話のようですが、鄧拓先生が凡俗の教育者のように指導を垂れた一文と単純に解釈してよいものか?と首を傾げました。
引用された『武陵記』、馬融の伝説的故事の一節『后汉马融勤学。梦见一林花如锦绣。梦中摘此花食之』のなかにある「一林花」は「一輪の花」ではなく、たぶん桃園の林に群生した桃の花のことでしょう。花を食べて本の知識を吸収できた、というファンタジーは桃源郷の系譜につながる印象が残ります。
建国から十年余り過ぎた頃、革命・戦争の実体験に乏しい新世代(アプレゲール?)が色んな分野で空論を叫び始めたのかも知れません。まさに「腰の座らない」議論に真っ向から教育的指導をせず、年少組をたしなめる雰囲気、幾分か揶揄する風情も感じます。
題名の『不要空喊〇〇』の〇〇は二の次で「不要空喊」に注目します。鄧拓の中に、空騒ぎを小馬鹿にする姿勢を感じて悔しがった若い世代、革命を知らない子供たちから見ると、鄧拓は旧世代の高踏的文人の代表でありました。徐々に恨みを募らせて、文化大革命の潮流の中で先鋭化し、鄧拓を窮地に追い込んだと想像しています。
文・井上邦久
不要空喊读书 原文
要读书,就应该拿起书来,一字一句地认真读下去,为什么会有空喊的呢?
空喊读书的,可能有几种人:第一种人因为自己没有养成读书的习惯,坐不住,安不下心,读不下去,但是又觉得读书很有必要,于是就成了空喊。第二种人因为有一些误解,以为拿起书来从头到尾读下去,就会变成读死书,所以还不敢也不肯这么做,于是也变成了空喊。第三种人因为太懒了,不愿意自己花时间去读书,只希望能找到什么秘诀,不必费很多力气,一下子就能吸收很多知识,所以成天叫喊要读书,实际上却没有读。
这三种人即便是极少数的,我们也应该耐心地给以帮助,使他们不再空喊,而认真地坐下来读书。并且对这三种人还要有所区别,采取不同的办法给以帮助。
三种人之中最难办的是懒病太深的人。这怎么办呢?唯一的办法是要促使他痛下决心,勤学苦读。虽然不必采取什么“以锥刺股”那样的办法,但是,也要有相当的发愤之心,否则是一事无成的。而只要真的勤学苦读了,那末,有时候才有可能达到“豁然贯通”的境界。唐代大诗人李白“梦笔生花”的故事,不是全属无稽之谈。古人类似这样的故事还多得很。例如,唐代鲍坚的《武陵记》一书上,还写了这样的一个故事:
“后汉马融勤学。梦见一林花如锦绣。梦中摘此花食之;及寤,见天下文词,无所不知。时人号为绣囊。”
很明显,马融所以能够变成“绣囊”,并非真的因为他做梦吃了花儿的缘故,而是因为他勤学苦读的缘故。
听了这个故事,如果不从勤学苦读方面去向马融学习,而光想做梦吃花儿,
那又会有什么结果呢!
可是,按照懒人的想法,却很可能不从勤学苦读上着眼。他也许会想到;这真妙啊!古时马融做梦吃了花儿,醒来就能通晓天下的文词;那末,现在能不能请一位科学家,发明一种神奇的办法,比如用注射针之类,对人脑进行注射,来代替读书呢?如果能发明这样的方法就太好了。到那时候,打一针或者吃一服药,就能吸收多少部书;这么一来,只消一个早上就能培养成千上万的知识分子和专门人材,岂不妙哉!
当然这只不过是痴人说梦而已,决不会真有人做这样的想法。我们但能从中体会到老老实实的读书态度的重要性,便有极大的受用。
然而,是不是一字一句从头到尾地读书,又会被批评为读死书呢?决不会的。我们反对读死书主要是指那种目的不正确的而言,并非说:认真读书都是读死书。要是这样理解,就大错特错了。其实,有许多人根本还没有读什么书,完全说不上什么读死书或者读活书的问题。
有的人老爱高谈阔论。什么事也没有做起,先要谈论个不休。大家都曾见到,有的成天在订计划,开书目,请人讲读书方法,在许多场合都很热心地泛论读书的重要性,如此这般耗费了许多时间和精力,结果误了别人也误了自己,倒不如把耗费的这些宝贵时间,放在老老实实的认真读书上面,也许可以得益不浅。
至于那种坐不住的人,只要下决心坐下来,很快就能养成习惯。这种人的毛病最轻,最好治。
一句话,读书不要空喊,到处叫嚷毫无用处。你觉得自己最需要什么知识。就赶快到图书馆去找有关的书籍,如有可能再想法买到这些书籍,抓住一天半天的时间,老老实实地从头到尾地一字一句地耐心读下去,遇到自己有用的重要材料就用本子记下来。这样做,从自己最需要的地方下手,兴趣很快也会培养起来,日积月累,就能读好多书,掌握好多知识,舍此以外,别无路子可走。
木下 国夫・藤井義則 校正
燕山夜話 第2集23話(通算53話)不要空喊读书