第2集燕山夜話-21 「形而上学的没落」

燕山夜話

 形而上学は、我々の感覚からすると既に腐敗した反動的哲学の代名詞であり、ここで改めて穿鑿する必要はないとおもう。

 そうは言っても、古代ギリシャ及び古代中国を研究する学者にとって、形而上学は、なおなんとも言えない聞こえの良い名称である。古代ギリシャの大哲学者アリストテレスの哲学著作中、最重要と目される作品が、われわれが最初に形而上学と呼んだこの書である。それ故に、アリストテレスが形而上学の始祖と呼ばれるのだ。形而上学という名称は古代中国の哲学書――『易経』にはじめて現れる。現在我々が用いている形而上学の語源である。時代が下り、形而上学は次第に没落してゆき、往時の聴こえのよい名称が、胡散臭い名称へとかわっていった。

 なぜ形而上学が衰退したか? 如何なる没落過程を歩んだか? その原因は何か?人類思想史に如何なる教訓をのこしたか?

 ご承知の通り、アリストテレスは紀元前322年に死去し、あとに多くの著作が残された。紀元前40年ごろ、アテネのリユケドロニコス学園第十一代学頭のアンドロニコスにより、アリストテレスの遺稿が編纂され、『アリストテレス全集』にまとめられた。その過程で、そのアリストテレス遺稿中に、抽象的哲学原理研究に関する著述の存在が判明した。それは、アンドロニコスが、アリストテレスの別の著作である『物理学』を編集し上げた直後のことで、『物理学の後』という標題が冠せられた。この標題は、編集者が臨時につけたものとはいえ、適切でない。

易経 (または周易という)

 アリストテレスも述べているように、この書での討論は、事物の属性、本質等の“第一原理”に関することである。そうとすれば、彼の著作『物理学』は“第二哲学”にすぎない。

 『アリストテレス全集』が出版された頃、西方の学者間では話題が抽象的哲学原理に及ぶと、それを引用するのにこぞって“後物理学”説なる名称を用いた。この“後物理学”の訳書が中国にもたらされ、それに“形而上学”という書名が冠されるのは、ずっと後のことである。

『易経』は中国古代の哲学書で、その『繋辞上傳』の第十二章の次のような文がある:

 “是故に形而上なる者は、之を道と謂い、形而下なる者は之を器と謂い、化して之を裁することを変と謂い、推して之を行うことを通と謂い、挙げて之を天下の民に(ほどこ)すことを事業と謂う。”[これゆえ、形而上とは、道を指し、形而下とは器を指す。事物を化し不要なる箇所を切り落とすことを変という。推し進め、世に普遍させることを通という。民を挙げてそれを施すことを事業という。]

アリストテレス

 ここで言う道とは、自然の大道理を指す。所謂器とは、有形の事物一切を指す。そして万事万物の発展変化は、自然の大道理にもとづき進んでゆくのである。

 『易経』にこの言葉があるので、清代の学者厳復が書名『後物理学』を翻訳して、“形而上学”と訳したのである。訳文の出来栄えは抜群である。が、形而上の道そのものは、抽象的第一原理と同一であるとどうして云えようか? 立派な書名をつけてもらったが、形而上学の進むべき没落という命運は如何ともしがたく、何のやくにもたたなかった。

 アリストテレスの哲学思想において、彼が唯物主義と唯心主義の間に揺れ動いた跡が、極めて明らかである。自然界の客観的存在を承認したにもかかわらず、宇宙の基礎が“第一物質”であることを認め、人の知識が感覚より起こっていることを認めた。しかも、事物には各種の存在形式があり、それらは能動的で、その形式が物質に作用し各種物体が生ずるとした。この考え方は唯物的かつ弁証的色彩を帯びているものの、彼が認識する所の、物質を消極的な不動的なものと認識し、且つまた形式を物質と対立的にとらえた。この結果、彼の哲学理論上に根本的な欠陥を包含するに至り、客観的な真理に誤った解釈を下した。

 歴代反動派の思想流派は、アリストテレスの哲学原理の誤りを悪用し、その思想をますます真理から遠ざけ、反動的哲学に変質させていった。これより読み取れることは。思想体系に根本的な錯誤が存在すると、反動的派閥がこれを利用し、錯誤を発展させる結果、それが没落の運命に至らしめることが避けられないのである。

 人類思想史を研究する人、特に哲学史を研究する人は、弁証法的唯物主義と各種の唯心主義が繰り広げた闘争の経験を総括し、形而上学が、長期にわたる人間思想の支配的立場から没落してゆく過程を総括し、研究を重ねて、歴史的教訓を探し出さねばならない。これは教育上に極めて意義深いことである。

【 掲載当時の時代考証と秘められたメッセージ 】

形而上学の没落 ひとそえ

 今月も難解な言葉と著名な人物が連なります。その中で題名にもある「形而上学」について「ひとそえ」します。

 形而上という言葉は、鄧拓も書いているように『易経』繋辞上伝にある「形而上者謂之道 形而下者謂之器」という記述に由来する中国の言葉であり概念であるようです。それを明治日本の井上哲次郎がmetaphysicsの訳語として「形而上学」を利用しました。中国ではmetaphysicsの訳語として復旦大学学長も務めた厳復による「玄学」を訳語にすることが主流だったようです。それが日本から逆輸入される形で「形而上学」が中国でも用いられるようになったとのこと。とは言え、その言葉の本家は中国なのでややこしい話です。

中江兆民      『三酔人経倫問答』

 NHK「100分de名著」の12月課題は中江兆民『三酔人経倫問答』でした。平田オリザ氏の解説のお陰で高校時代の倫理社会の授業よりも分かった気分になりました。平田氏も高校時代に西田幾多郎の難解な用語や文章にはギヴアップしたけど、中江兆民の口語体問答形式には親しめたとNHKのテキストに書いています

 『北京晩報』という夕刊紙のコラムとして「燕山夜話」を連載した鄧拓も、難解なテーマを政治的に注意しながら解説したのでしょう。

文・井上邦久

形而上学的没落 原文

 在我们大家的心目中,形而上学已经成了腐朽的反动的哲学的代名词,似乎没有什么必要再去说它了。

 然而,在希腊古代学者和我国古代学者的心目中,形而上学却是相当好听的名称。古代希腊大哲学家亚里斯多德的最重要的哲学著作,就是我们所说的最早的形而上学。所以亚里斯多德可算得是形而上学的始祖。古代中国的哲学书籍――《易经》上面最初出现形而上学这个名称,这就是我们现在的形而上学一词的来源。到了后来,形而上学逐渐没落了,从一个相当好听的名称,变成越来越臭的名称了。

 为什么形而上学会逐渐没落了呢?它的没落过程如何?原因何在?在人类思想史上留下了什么重要的教训呢?

 大家知道,亚里斯多德在公元前三二二年死去以后,遗留著作很多。到了公元前四十年的时候,雅典的吕克昂学院第十一任院长安得洛尼柯,才把亚里斯多德的遗稿编为《亚里斯多德全集》。而在亚里斯多德的遗稿中,有一部分是研究抽象的哲学原理的著作。安得洛尼柯把它们编在亚里斯多德的另一部分著作《物理学》之后,标题就写着:《后于物理学》。这个标题显然是编书的人临时采用的,意义很不确切。

 实际上,亚里斯多德自己说过,他在这一部分著作中所讨论的问题,乃是关于事物的属性、本质等等的“第一原理”,而他的《物理学》著作只不过是“第二哲学”罢了。

 自从《亚里斯多德全集》发行的时候起,西方的学者们一谈到抽象的哲学原理,就都采用了“后物理学”的名称,这完全变成一种习惯了。但是,把“后物理学”翻译到中国来,叫做“形而上学”,这却是很晚的事情。

 原来在中国古代的哲学著作《易经》《系辞上传》第十二章中,有如下的一段文字:

 “是故形而上者谓之道,形而下者谓之器,化而裁之谓之变,推而行之谓之通,举而措之天下之民谓之事  业。”

 这里所说的道,是指自然的大道理;所说的器,是指一切有形的事物。而万事万物的发展变化,都是按照着自然的大道理进行的。

 由于《易经》上面有了这种说法,所以清代的学者严复在翻译“后物理学”这个名称时,就把它译成了“形而上学”。这样的翻译应该承认是比较高明的。形而上的道,岂不是与抽象的第一原理差不多吗?不过,名称尽管很好听,也是没有用的,它的命运却注定了它的必然没落。

 就在亚里斯多德的哲学思想中,人们已不难发现他在唯物主义和唯心主义之间的动摇,是非常明显的。尽管他承认自然界的客观存在,承认宇宙的基础是“第一物质”,承认人的知识起源于感觉;并且他认为事物有种种存在的形式,它们是能动的,形式作用于物质就产生各种物体。这些虽然带有唯物的和辩证的思想色彩,但是,他把物质当做消极的不动的,又把形式和物质对立起来,这样就造成了他在哲学理论上的根本缺陷,给客观的真理做出了错误的解释。

 历代反动的思想流派,都极力利用亚里斯多德的哲学原理的错误,使它愈来愈远地离开了真理,变成反动的哲学。由此可见,一种思想体系本身如果有根本错误和缺陷,而被反动的派别所利用,发展了它的错误,其结果就一定不能避免它的没落的命运。

 研究人类思想史,特别是研究哲学史的人,不但应该总结辩证唯物主义和各种唯心主义斗争的经验,也还应该对于长期支配人们思想的形而上学的没落过程,加以研究,找出它的历史教训。这是很有教育意义的事情啊!

木下 国夫・藤井義則 校正

燕山夜話 第2集21話(通算51話)形而上学的没落