第2集燕山夜話-19 「創作新詩牌」

燕山夜話

新しい歌詞の創作

 新詩歌の発展方向について、討論が繰り返され長い時間が経つが、解決の目処はまだたっていない、どうしてか。

 鍵は、新内容を盛る器となる新詩形を見出すことである。それには、多くの努力と、試行錯誤をくりかえすことであるが、実践も十分とはいえず、経験不足から、成果が上がらない。

 新詩歌の新しい民族形式創出が行き詰まるには理由がある。創作を試みる人が無かったわけではない。五四運動以来、多くの人が新詩歌を試みてきた。新詩歌の格式がいまだに確立されていない裏には、つぎのような複雑な原因が内在する。

 大雑把に言って、新形式として採用が認められるには、少なくとも、民族的特徴と時代の特徴、この二点を具えなければならない。しかし、我々が目にする範囲では、この二つの特徴を同時に備える詩歌がまだ見つからない。

 民族的特徴と時代的特徴を兼備する詩歌形式を創造する方法は、いくつか考えられる。どの道もすすめば頂上にたどりつくことが出来る、そんな方法だ。興味ある方はぜひ試みてほしい。

 これは、皆さんがみつけた道のほかに、新しい道を走ろうということだ。登る道の長短、得失の詳細を述べることは控えるが、ここでいう新しい道とは、別の角度から述べたもので、しかもそれは、旧路より現れたもの、即ち古来の楽府や詩曲が発展してきた法則と軌を一にする。

 明の王世貞は『芸苑卮言』に次のように書いている:

 “三百篇亡び、而る後騒賦あり。騒賦楽に入り難く、而る後に古樂府あり。古樂府俗に入り難くして、而る後に唐絶句を以て樂府を為す。絶句宛轉少なくして、而る後に詞あり。詞、北の耳に快ならず、而して北曲あり。北曲南の耳に諧せず、而る後に南曲あり。”

[最古の詩、詩経が亡んで、楚に楚辞があらわれた。楚辞が歌樂に合わず、古楽府が発生した。古樂府は宮中ではやったが、一般に受けなかった。それで唐に絶句がはやり、楽府に替わった。絶句は、宛轉とした心情を表現できなかったので、詞が起こった。詞は北方の民になじまなかったので、北曲が起こった。北曲が揚子江以南の民に受けなかったので、南曲が生まれた。]

北京 老舎茶館の人形

 これは、我が国古代楽府、詞、曲等の発展と変化の史的概要を述べたものである。この変遷の流れは、遡れば宋代の王灼が『碧鶏漫志』において、述べ、明代に至り王世貞がこれをさらに明確に述べたのである。

 この発展歴史より、漢代から古楽府が始まり、詞、曲等の歌と譜が統一を見たことが、よくわかる。

 漢、唐の楽府や宋、元の詞曲も、楽器の伴奏に合わせて歌唱するための詞であり、通常は先に音譜があり、後で詞が付けられたのである。だから、宋代の周密が『斉東野語』でこう述べている。

“古今歌詞の譜、備具せざる靡(ナ)し‥‥‥然れども譜ありて詞無き者半ばを居(シ)む。

[古今の歌詞には楽譜が必ず存在した‥‥‥しかし、譜があっても、詞がついていない楽譜が半数を占める] 

元時代の人が編集の『草堂詩余』もこう述べている。

“唐人は調べに因り詞を制り、後人填詩して以て調べに従う。”

[唐人は音曲を聴いて作詩した、後人は詩の字句を填め込む手法で調べを整え作詩した。]

填詩するようになり、宋、元時代の作者は、多くの詞曲を残すことができた。しかも水準も高かった。これは、当時流行した詞譜、曲調の数量の多さと密接な関係がある。詞譜、曲調には名前がつけられた。詞牌あるいは曲牌と呼ばれるものがそれである。牌子が異なれば、譜や詞が異なるので、内容と形式が一体になり、創作に有益であった。

 旧詞牌や曲牌は徒に形式に走り、内容が伴わず、韻律が厳しく自由度が欠け、創作の発展を考えると、この道をとるべきでないと、一般に言われる。よく考えてみると、これらの意見が必ずしもすべて正しいとはかぎらない。

北京 和平門南 正乙祠戲楼の詞の朗誦会

 本来、詞曲の内容、即ちストーリーは、詞の形式、音律に合わせるべきである。激憤慷慨の調子に、やわい連綿の題材を配しても、さえるはずがない。これを反対にしても同じことだ。詞牌と詞児(詞の用語)、曲牌と曲子(曲)が分離したのは、後の文人に詞曲の理解が足りなったからだ。韻律に至っては、譜を作る時に、幅を広くとればすむことで、束縛感も緩和されることだろう。

 古代楽府、詞、曲から欠点を取り去り、伝統的な長所を残し、今日の時代的特徴を加味して、新曲をどんどんつくり、現在の喜怒哀楽を表現してはどうか。できた曲譜に一つの牌子(曲名)をつけ、曲を選びやすくする。こうすれば、新詩創作は、大きな推進力となるに相違ない。創作するとき、必要に応じて、それにあった曲を選び、セットにする。これは面白いとおもう。

これは一つの構想であり、実行できるかどうかわからない。とはいえ、熱心な皆さん、ひとつ試してはいかですか、そうしていただけるとこの上なく有難い。

【 掲載当時の時代考証と秘められたメッセージ 】

創作新詩牌 ひとそえ

 今月は、歌、詩、詞、謡、唄・・・「うた」の歴史です。

作者鄧拓は中国の「うた」の流れを大雑把に綴っています。

講読会で、北先生から基本は「うた」であり、その音の調べ、拍子に合わせて、各種各様の言葉が付けられてきた、と解説されました。

平仄、押韻に始まり、「うた」の世界の歴史は長く、南北に特色があり、その由来にも深いものがありそうだ、という段階までは「ひとそえ」できても「進一歩」、さらに掘り下げる一歩は大きく浅学の手に負えません。そこでいつものように先学碩学に頼ります。

大阪市北船場の伏見町二丁目に青山ビルという昭和レトロの建物があり、その横に一軒だけ町屋が残っています。道修町少彦名神社(神農さん)と背中合わせの家には「一海」の表札が出ています。

青山ビル

一海知義先生の旧宅で、近年までは令夫人がお住まいで、表に面したガラス棚には著書や加藤周一氏との共著などが飾っていました。

著書の一冊『漢詩入門』(岩波ジュニア新書304)の巻頭に漢詩には「一定のリズムがあり、一定のリズムとは、何か。」と書いています。

親しみやすい文章で漢詩への恐怖心を和らげてくれますが、そこは岩波ジュニア新書ですから、しっかり「歳月不待人」も伝わります。

文・井上邦久

 

创作新词牌 原文

 新的诗歌发展的道路问题,经过了很长时间的讨论,似乎还难于解决。这是什么缘故呢?
 最重要的关键之一,就是要想求得足以表现新内容的新形式,还需要做许多努力,进行更多的尝试,而在这些方面,我们的实践却还十分不够,经验缺乏,成绩不多。
 为什么我们不能创造出新诗歌的民族形式呢?难道这许多年来都没有人做过任何尝试吗?事实当然不是这样。早从五四运动以来,曾经有许多人尝试和创作了许多新的诗歌。但是,这些新诗歌实际上并没有形成什么确定的形式。这里边又有许多复杂的原因。
 大体说,要想形成一种新的为大家所公认和采用的诗歌形式,起码应该具备两个特点:民族的特点和时代的特点。而我们所看到的新诗歌,往往不能同时具备这两个特点。
 那末,究竟应该如何去创造既有民族特点又有时代特点的新诗歌形式呢?路子可以有好几条,可以殊途同归,有心人都无妨试试。
 在这里,我不想详细论列和比较各种路子的长短和得失,只想建议大家在已经发现的若干路子之外,再试走一条新的路子。当然,这里所谓新的路子只是就某种意义来说的,而且它仍然是从旧路中走出来的,这正如古来的乐府和词曲等发展的规律一样。
 明代王世贞的《艺苑卮言》中有一段文字写道:
 “三百篇亡,而后有骚赋;骚赋难入乐,而后有古乐府;古乐府不入俗,而后以唐绝句为乐府;绝句少宛转,而后有词;词不快北耳,而后有北曲;北曲不谐南耳,而后有南曲。”
 这可以说是我国古代乐府、词、曲等发展变化的历史过程的基本概括。这个过程早在宋代王灼的《碧鸡漫志》中,就曾经讲过了;但是,到了明代王世贞讲的却更为明确。
 从这个历史过程中,我们应该看到,由汉代的古乐府开始,词、曲等的歌与谱就是统一的。
 无论汉、唐的乐府和宗、元的词曲,本来都是能够吹奏和弹唱的;并且常常先有谱子,而后才有词儿。所以,宋代周密的《齐东野语》说:“古今歌词之谱,靡不备具。······然有谱无词者居半。”元人所辑的《草堂诗余》也说:“唐 人因调而制词,后人填词以从调。”宋、元时代的作者,所以能够创作那样大量的词曲,并且水平很高,这和当时大量词谱、曲调的流行有很大关系。他们的每个词谱和曲调,都有一个名称,这就是词牌或曲牌。它们的每一个牌子,都可以谱成不同的词儿。这就使内容和形式便于结合,有利于创作。
人们往往认为,旧的词牌或曲牌,徒具形式,与内容不一致,而且韵律太严,很不自由,要发展创作,决不能走这条路子。现在看来,这些理由也不见得都对。
本来,词曲的内容是适合于它们的形式的。假若用激昂慷慨的调子,来写软绵绵的题材,怎么也不合适;反过来也是一样。词牌和词儿、曲牌和曲子相脱离,乃是后来的文人不懂得词曲的结果。至于韵律,可以在制谱的时候,把它们定得越宽越好,就不会使人有被束缚的感觉。
 如果我们能够充分地吸收古代乐府、词、曲等的传统优点,排除它们的缺点,又按照今天我们的时代特点,制成一大批新的曲谱,以表达我们这个时代的人们的喜、怒、哀、乐等各种感情。每一个曲谱给它定一个牌子,使人便于区别和选择。真的做到这样,那末,对于新的诗歌创作,很可能是一个巨大的推动。当人们从事创作的时候,可以根据需要,选择任何一个适合的曲谱。同时,也象古代的词曲那样,各个词牌或曲牌既可以单独使用,又可以连成一套,岂不甚好?
 这自然是一种设想,未必行得通。但是,如有热心的朋友,愿意试一试,则不胜欢迎之至。

木下 国夫・藤井義則 校正

燕山夜話 第2集19話(通算49話)創作新詩牌