第2集燕山夜話-16「非礼勿」

燕山夜話

非礼勿

 八股文の試験では、試験官が『四書』の範囲を越えて出題することはなかった。今回の首題は、『四書』から拾ってきたもので、この点では、科挙時代に行われた一昔前の八股文の題目とよく似ている。『論語』にこうある、顔淵が孔子に質問した。“克己復礼”をどのように解釈すればよろしいか? 孔子は答えた、“非禮勿視、非禮勿聽、非禮勿言、非禮勿動”[“礼に非らずんば視るなかれ、礼に非らずんば聴くなかれ、礼に非らずんば言うなかれ、礼に非らずんば動くなかれ。”今回の首題はここから取った。
 まずお断りするが、これから、八股文を講義するのではなく、八股文を書いていただくつもりでもない。八股文の規則では、非礼勿の三字を使って作文するのであるが、原典四句にある「視・聴・言・動」四字を使うことは許されない。即ち、非礼勿の三字が題目で、この「非礼勿」三字を使って作文する。但し視、聞、言、動に関係する問題に触れてはならないのである。このような次第で、八股文がいかに人間の思想を束縛し、精力を消耗させる文字の鎖であったかわかるだろう。こんな制度は、徹底的に排除されるべきものであった。
 いまは、八股文の時代と打って変わって、あらゆる問題を自由に、思い切り議論することができる。そこで、孔子のこの非礼勿四句から、非礼勿の三字を出題問題とし、回答に、視、聴、言、動の意義を含むすべての問題を網羅してもよいことにする。
 孔子の講話に賛同できないものが多いが、彼が講じた克己復礼の四句は、正しく解釈されると、云っていることに間違いはない。

江南貢院 正門

 儒家は“礼”について代々特別な解釈をし、ある者はそれを至極玄妙なものに祭り上げた。現在の目で見れば、礼とはすなわち規則、準則、法度の意味である。宋代の理学家の朱熹は、“礼は即ち理なり”とする。 ここでいう“理”は、法則とか規則と解釈できる。
 何を行うにも、一定の規則が必要である。これに反対する人はいないだろう。この意味でいうと、我々にも我々の礼が必要であり、礼は、古人専売の礼ではない。我々がいう礼は、すなわち皆で遵守するべき道徳基準と規律である。社会生活における規則は個人の利益を集団の利益に従わせる規則を最高の規則とする。これに基づいて、凡そこの規則に違反することは、社会生活の規則に違反することであて、これは当然ながら全て非礼であり、為してはならないことである。
 このような事は、日常生活の中でよく見かける。例えば、ご存じの通り国家機密の保護、これは我が国、一人一人の神聖なる義務である。因って、凡そ国家機密の妨害や漏洩の恐れがある事は、毅然として自主的に防止しなければならない。ではどうすれば事前に国家機密漏洩事件を食い止められるだろうか。それには、常日頃から全国民に幅広く愛国教育を施し、特に具体的に人民の秘密保持観念を打ち立て、秘密保持の習慣を人民のあいだに植え付け、しかも秘密保持制度と条例を規定しなければならない。秘密保持制度と条例に適合しないことは、行うべきでなく、国家機密漏洩に反する行為を発見した時は、必ずそれを阻止し矯正せねばならない。それではじめて我々の礼にかなうのだ。非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動の良い習慣を身につけなければならない。
 この四句を実行することは容易ではなく、己に打ち勝つ努力なくして実現できない。

江南貢院(清朝当時) 下が試験会場の<号舎>群

引き続き秘密保持問題で説明すると、まず“礼に非ずんば視る勿れ”を実行しなくてはならない。言い換えれば、自分の仕事と関係のない国家機密の文書等は見ない。人によっては、文書を見ることが一種の政治的力と見なすため、誰が何種類の文書を見たかにこだわり、厳格に仕事の必要に照らしていない。これは間違いである。実際上は、自分の仕事と関係のない文書は、一切口出しする必要がないのである。これで“礼に非ずんば視る勿れ”の正しい態度となる。同じように、自分の仕事に無関係の問題を聞いても、それが国家機密に関わる機密であれば、自主的に抑止すべきである。これが即ち、“礼に非ずんば聴くこと勿れ”である。自分が知っている全ての国家機密の問題は、組織の正式手続きを経て報告を行うか、意見を交わす以外は、如何なる場所においても軽率に話すべきではない。これがすなわち“礼に非ずんば言う勿れ”である。最後に、特に警戒しなければならないのが、国家機密を漏洩してはならないこと。例えば、機密文書の紛失、親戚や友達との通信で国家機密の漏洩、その他の漏洩行為である。いわゆる“礼に非ずんば動く勿れ”とはこのことを言うのである。
 この様に述べてくると、 “非礼勿”ではじまるこの四句は、過去に軽視、批判されてきたが、整理解釈をやりなおせば、論語やその外の語録と同様に、まだまだ有益な経験を汲み取ることができるのである。

【 掲載当時の時代考証と秘められたメッセージ 】

「非礼勿」 ひとそえ

 科挙制度の悪しき象徴としての八股文に反対する意見を魯迅も述べている。また延安時代の共産党の整風運動は、「党八股」への反対から始まったとされる(1942年2月8日,毛泽东在延安干部会上作《反对党八股》的演说,强调“一定要把党八股和教条主义等类,彻底抛弃”)。延安の前衛党にも八股の悪弊が蔓延っていたようである。 
 1960年初頭の作者は「いまは、八股文の時代と打って変わって、 あらゆる問題を自由に、思い切り議論する ことができる。」と一見伸びやかな文章を書いている。だが裏腹に、「国家機密」の語を9回、「保密」を6回も頻出させている。

1942年2月当時の総政治部 会議室
(1937.10~1947.3)
中国 延安 共産党 総政治部 会議室内

 60年後の「反スパイ法」対策に援用できそうな気がする。
 八股文の背後にある四書五経に触れた文を読んだ。辰巳芳子さんとの対話と「二宮翁夜話」(若松英輔『言葉のちから』日経2023年7月22日)には、四書五経のような古典は、ある人にとっては「水」となるが、多くの場合「氷」のようになっている。と要約引用されている。
『燕山夜話』とともに、二宮尊徳の『夜話』を聴いてみたい。

文・井上邦久

非 礼 勿」 原文

 这个题目很像从前科举时代八股文的题目。考试八股文的时候,主考官出题照例不许越出《四书》之外。我现在的这个题目的确也出于《四书》。《论语》载,颜渊问孔子:所谓“克己复礼”应该怎样解释?孔子回答说:“非礼勿视,非礼勿听,非礼勿言,非礼勿动。”这就是我的题目的出处。
 但是,我不打算讲八股文,更不想写八股文。如果按照八股文的规矩,这四句话除了视、听、言、动四字不同以外,非礼勿三字完全相同;题目既然只有非礼勿三字,那末,通篇文章就决不许涉及视、听、言、动的任何问题,而只许在非礼勿三个字上面做文章。因此,八股文完全是一种束缚人们的思想,消磨人们的精力的文字锁链,非彻底废除不可。
 与八股文完全相反,我们却可以充分自由地议论各种问题。对于孔子这四句话,我们只取其相同的非礼勿三字为题,就可以概括视、听、言、动的几种意义在内了。
 孔子说的话有许多是我们根本不能赞同的;但是,他说明克己复礼的意义所讲的这四句话,只要加以正确的解释,我觉得还有一些道理。
 儒家历来对于“礼”字都做了特别的解释,有的讲得非常玄妙。其实,在我们看来,所谓礼就是规矩、准则、法度的意思。宋代的理学家朱熹也承认:“礼即理也。”这里所谓“理”也可以解释为法则和规矩。
 不论做什么事情,总应该有一定的规矩,这大概是没有人会反对的。从这个意义上说来,我们也有我们的礼,决不是只有古人才懂得礼。我们所说的礼,就是一整套为大家所共同遵守的道德准则和生活规矩。我们的社会生活规矩是以个人利益服从集体利益为最高准则的。以此为根据,凡是违背这个准则,违背我们社会生活规矩的事情,都应该说是非礼的,因而都是我们不应该去做的。
 这类事情,在我们日常生活中可以遇到很多。例如,我们知道,保护国家机密,这是我国每一个公民的神圣义务。因此,凡是足以妨害和泄露国家机密的事情,我们要坚决地自觉地加以防止。那末,如何能够事先防止泄露国家机密的事情发生呢?这就必须经常地向广大的人民群众进行爱国主义的教育,特别是要具体地进行保密的教育,树立人们的保密观念,养成保密的习惯,并且规定保密的制度和条例。凡是不符合保密制度和条例的事情,我们都不应该去做,见到别人做了有害国家机密的事情,一定要加以劝阻和纠正。而这一切就成了我们的礼,人人就都应该养成非礼勿视、非礼勿听、非礼勿言、非礼勿动的良好习惯。
 具体地实现这四句话是不容易的,非经过一番克己的努力不可。仍以保密问题来做说明,那末,我们首先应该做到非礼勿视。换句话说,国家机密的文件等等,如果与自己工作没有关系的,就不要看。有的人斤斤计较谁看了几种文件,把看文件当成一种简单的政治待遇,而不是严格地按照工作需要。这是不对的。实际上,那些与自己工作没有关系的文件,根本不要过问,这才是非礼勿视的正确态度。同样,听到与自己工作无关的情况和意见,如果涉及国家机密,也应该自觉地制止。这就是非礼勿听。至于自己对于所知道的一切有关国家机密的问题,除了按照一定组织的正式手续进行报告和反映以外,在任何地方也不应该随便谈论。这就是非礼勿言。最后,还要特别警惕,不要做出泄露国家机密的行动,比如遗失了机密文件,在同亲戚朋友通讯中暴露国家机密,以及其他泄露行为。所谓非礼勿动就是这个意思。
 这样说来,过去曾经被人轻视和批评的非礼勿这四句,如同孔子的其他某些语录一样,似乎还可以重新加以整理和诠释,找出对我们有用的经验来。

木下 国夫・藤井義則 校正

燕山夜話 第2集16話(通算46話) 非礼勿