第2集燕山夜話-14「華封三祝」

燕山夜話

華 封 三 祝

 本日、華封三祝の故事についてお話できることは、これも何かのご縁でしょう。長い歳月を経て、現在に伝わる古い伝説ですが、それに新しい角度から光をあててみるのも面白いかと思う。
 この故事は、『荘子外篇』の『天地篇』の中に、こう記載されている。
 “堯、華に観(あそ)ぶ。華の封人曰く、嘻(ああ)、聖人なり。請ふ聖人を祝し、聖人をして壽ならしめん。堯曰く、辞す、と。聖人をして富ましめん、と。堯曰く、辞す、と。聖人をして男子多からしめん、と。堯曰く、辞す、と。封人曰く、壽と富と男子多きことは、人の欲する所なり。女(なんじ)独り欲せざるは何ぞや、と。堯曰く、男子多ければ則ち懼多く、富めば則ち事多く、壽なれば則ち辱多し。是の三者は徳を養ふ所以に非ざるなり。故に辞す、と。封人曰く、始め、我女(なんじ)を以て聖人と為せり。今然り君子なり。天万民を生ずれば、必ず之に職を授く。男子多くして之に職を授けば、何の懼か之有らん。富みて人をして之を分たしめば、則ち何の事か之有らん。夫れ聖人は鶉居して鷇食し、鳥行して彰(あと)無し。天下に道有れば、則ち物と皆昌え、天下に道無ければ、則ち徳を修め閒に就く。千歳世を厭ひ、去りて上僊す。彼の白雲に乗りて、帝郷に至り、三患至る莫くして、身常に殃 無ければ、何の辱か之有らん、と。”
[尭が、華の地方を行幸した。華の城門番人が云った、“ああ、聖人さまだ、どうかお祝いの言葉で、ご長寿をことほがせてください。” 堯が云った、“ご遠慮もうす。”“富さかえるように”と云うと、堯が云った“ご遠慮もうす。”“男の子を授かるように”と云うと、堯が云った、“ご遠慮もうす。”番人は云った、“壽、富、男子の多いことは、誰でも欲する所だ、要らぬと申されるのはあなた様だけだ、なぜか。”堯が云った、“男子多ければ心配事が多い。富めば、事がおおい。長生きすれば恥が多い。この三つは徳を求める道に反する。だからお断りする。”門番は云った、“私ははじめ、あなたさまを聖人と思った、今は君子だと思う。天下、民が増えれば、民に職を与える。男子が多ければ、男子に職を授ければ、恐れなぞない。富めば、人に分け与えれば、事は起こらない。聖人は、ウズラのように住み、鳥が食うように食事をとり、鳥が飛び立ったあとのようにあとに物を残さない。天下が平安であれば、物、人みな栄える。天下が乱れると、身を引き、徳を修める。千年の生に飽きれば、白雲にのり、帝郷にゆけば、三つの患いはない。身に災いなければ、辱もありません。”]
 

 『荘子外篇』は荘周の著作か、歴来の学者が疑ってきたが、王夫之の『荘子解』によると、“外篇 荘子の書に非ず、蓋し荘子の学者が為し、引いて之を伸ばさんと欲すれど、而して之を見(し)て逮(およ)ばざらしめ、肖を求め能わざるなり。内篇を以て之を参観すれば、則ち辨(わか)つこと灼然たり。”
[外篇は、荘子が書いたものでない。多分、荘子を学ぶ学者が、原典を引き延ばそうとして、引き伸ばすことが出来ず、原本に似せようとしたが、かなわなかった。内編と比べると、それが明らかだ] 
林云銘の『荘子因』もこのように云う。“外篇疑ふらくは荘を擬す者作る所か。” 彼はしかも大変具体的に『天地篇』の “華封人一段、義に着落無し、その詞頗る時趨に近し、疑ふらくは荘叟の真筆に非ざるを”[華封人の一段は、論旨の落ち着きがわるく、用語が今日に近い。多分荘子の真筆でないだろう。] と指摘している。
 けれども、この華封三祝の故事は、伝説時代に生きた人々の生活に対する善良な希望をあらわしたものだ。『荘子外篇』は、たとえ荘周の原作でなくても、あきらかに古代に流行した伝説を根拠にしており、決して無稽の捏造によるものといえない。
 ご承知のとおり、陝西の華山地区は、むかし華州と呼ばれた。中国古代文化発の地で、西岳勝境で有名であるが、ここが夏時代の仲康が封地と伝えられている。もともと、仲康の祖先と彼の氏族は、早くからこの地方に住んでいた。封地されるまえから住んでおり、後に貴族に与えられて封地となった。いわゆる華封人は後世の人々がつけた呼び名であって、当初彼らは華山付近で生活する原始氏族社会の人々に過ぎずない。特に伝説中の堯時代は、まだ母系氏族社会であって、男系世界でないから、“多男子”類の言葉が出てくるはずがない。これらは後世の人が牽強付会を以てしたもので、実際状況とは大きなずれがある。しかし、原始時代人は、男子であろうと女子であろうと、多子を望んだ可能性はありうる。
 

 この故事の云う所によると、堯は伝説では確かに偉大な聖人であるが、彼が実在の人物であったとは限らない。けれども、彼は人類の天才と知恵を一身に集め持つ超能力者であり、理想の化身である。彼が華山地区にやってきた時、華の関守は彼にお祝の言葉を述べたが、彼は非常に謙虚に、三回の祝辞にたいし三回とも辞退した。後に 華の関守がこれは当地の人々の共通意見であると述べ、堯はやっと受けた。
華の関守の祝辞三句には、人民の願望を的確に表現した、よい祝辞だ。現在の我々にとっても、それに新しい意義を吹き込めば、ふさわしいものに生まれ変わるだろう。
 一、其の壽を祝す。古代の人はみな大変長寿であった。八十歳は単なる下壽に過ぎず百歳もただの中壽で、百二十歳でやっと上壽とよんだ。華の関守は聖人に壽を祝したいと申し出たが、堯は“壽は則ち辱多し”、と辞退した。彼らは壽夭の問題に拘泥していない。荘子『天地篇』の文を上下掘り起こせばすぐにわかる。彼の主張するところは“壽を楽まず、夭を哀しまず、通を栄らず、窮を丑じず”であり、この思想は達観の域にあることを表している。
 二、其の富を祝す。人々が裕福な生活が出来ることは、これはもちろん結構なことである。けれど、堯が之を辞退したのは、“多事”を恐れたのである。荘子は“事”を解釈して、“事”とは、いわゆる“上、人を治む者の事なり”と言っている。荘子は彼の“無為にして治む”の政治思想を用いて、堯の思想に代えたので、“富めば則ち事多し”という言葉を言わせている。しかし華の関守は原始共産主義社会の観点から、この問題に対し回答している。“富めば人をして之を分かつ、則ち何事かこれ有らん”、と彼は云う。現在我々の観点から見れば、この言葉にもし絶対平均主義的思想が含まれていないなら、それは完全なる正解である。
 三、其の多子を祝す。堯は“多きを惧る”を理由に之を辞退する。遥か古代の人々が既に人口過多を恐れているようだ。実際は人が多いと力量も多い、これは真理である。天下に事業は多すぎるほどあり、仕事がありさえすれば、人口が多くてもなんら心配する必要がない。華の関守の云うことが正しい。“之に職を授く、則ち何ぞこれ惧るること有らんや”[人民が増えれば、それに職を与える、人口の増加は恐れることはない]である。“職”とは仕事の意味し、すべてが官職を指さない。“天万民を生じ、必ず之に職を授く”[天が人類を増やし、増えれば、生きるための職を之に与える]のである。生産労働に従事しようがその他の仕事を担おうが、人々は必ず一定の職責がある。このような思想に対し妄りに異議をとなえることができるだろうか。
 “此の三者は養徳の所以に非ざるなり”とまで言っている。この言葉は荘子が聖人を借りて彼の主張を宣伝していることは更に明白である。『天地篇』の冒頭でこのように述べている。“古の天下に君するや、無為なり。天徳のみなり。”[古の聖人は、天下の君主として、国を治めるになんら人為的政策をおこなわず、人民の自由にゆだねた。あるのは唯、天より君主に与えられた徳のみである。] 
また言う、“無為にして之を為すを之を天と謂ひ、之を言う無きを為すをこれ徳といふ。”[無作為をなすこと、すなわち人為的施策をおこなわぬことを、天と言い、治政になにも言わないことを徳という]また言う、“天地に於いて通ずる者は徳なり。”[天と地を仲介する者を徳という]これらは無為政治思想より導き出されるべき理論的結末である。けだし華の関守の思想は、荘子及び門弟の無為主義と歴然と区別し、華封三祝がもつ積極的意義を再評価し等閑に付してはならない。

【 掲載当時の時代考証と秘められたメッセージ 】

「华 封 三 祝」 ひとそえ

 堯が実在したか否か?荘子が外編を書いたか否か?という古い話の考証は別にして、1960年代初頭に鄧拓が綴った本編は中国社会に通じる「為政と無為」の内容だと思う。
「壽と富と男子 多きことは、人の欲する所なり・・・」として三大祝事とする。壽は長寿の意であり高齢化に繋がる。富は富裕化であり格差社会となる。男子多きことは、多男子奨励による人口問題と男女間差別問題を生じさせている。
 社会福祉制度の根幹が充実する前に少子高齢化が加速し、先富論を早い者勝ちと解釈し機敏に行動した一握りの集団が国の富を占有する。政権がヒトの出生多寡を強制し、その政策の転変によって歪な人口動態を生じさせてきた。
 もちろん、侵略や内戦の被害と急速な社会主義化政策による弊害の影響下にあった1960年代に、壽や富は夢の又夢で
あったであろう。政権の中枢付近に居た鄧拓といえどもその後の政策の振幅を知る由もなかった。
 鄧拓の筆致に通底する達観が本編にも感じられる。現在に於いても同様に「無為の治」を望む人は少なくないと思う。

文・井上邦久

華 封 三 祝 原文

 今天来谈谈华封三祝的故事,似乎有特殊的意义。这个古老的传说,经过长久的岁月,到现在我们却无妨对它进行一种新的解释。
 这个故事在《庄子外篇》的《天地篇》中是这样记载的:
 “尧观乎华。华封人曰:嘻。圣人!请祝圣人,使圣人寿。尧曰:辞!使圣人富。尧曰:辞!使圣人多男子,尧曰:辞!封人曰:寿、富、多男子,人之所欲也;汝独不欲,何邪?尧曰:多男子则多惧,富则多事,寿则多辱。是三者,非所以养德也,故辞。封人曰:始也,我以汝为圣人邪,今然君子也。天生万民,必授之职。多男子而授之职,则何惧之有?富而使人分之,则何事之有?夫圣人鹑居而鷇食,鸟行而无彰,天下有道,则与物皆昌;天下无道,则修德就闲;千岁厌世,去而上仙,乘彼白云,至于帝乡;三患莫至,身常无殃,则何辱之有?”
 《庄子外篇》是否为庄周所作,历来学者颇多疑义。如王夫之的《庄子解》认为:“外篇非庄子之书,盖为庄子之学者,欲引而伸之,而见之弗逮,求肖不能也。以内篇参观之,则灼然辨矣。”林云铭的《庄子因》也说:“外篇疑为拟庄者所作。”他并且很具体地提到《天地篇》中的“华封人一段,义无着落,其词颇近时趋,疑非庄叟真笔”。
 但是,这个华封三祝的故事,却表现了我国古代传说时期的人们,对于生活的一种善良的愿望。《庄子外篇》的这一段记载,即便不是庄周的原作,显然也是以古代流行的传说为根据,决不是无稽的捏造。
 我们知道,在陕西的华山地区,古时为华州。这个地区是中国古代文化发祥地区之一,是有名的西岳胜境,相传是夏代仲康的封地。其实,仲康的祖先同他所属的整个氏族,老早就已经生活在这个地方。最初并没有封地,后来才有许多贵族的封地。所谓华封人是后人对他们的称呼,他们当初实际上只不过是生活在华山附近的原始氏族社会的人们。特别是在传说中尧的时代,还处于母系氏族社会,人们根本不是以男系为中心,也不会说出“多男子”之类的话来。这些当然都是后人牵强附会,与实际情形有很大出入。不过,原始时代的人,不论多男子或者多女子,总之希望多子却也是可能的。
 照这个故事所说的,尧在传说中确实是伟大的圣人。他不一定实有其人,可是,他是人们的天才智慧的最集中的代表,是理想的化身。他到了华山地区的时候,华封人向他致祝词,他表示非常的谦虚,三祝而三辞。后来华封人说出了当地的人们共同的意见,尧这才接受了。
 华封人的三句祝词,的确表达了人民的愿望。对于古代的人,这三祝当然是适宜的;对于现代的人,如果我们赋予它以新的意义,这三祝也是适宜的。
 一祝其寿。古代的人都很长寿,八十岁只能称为下寿,一百岁还只称为中寿,一百二十岁才称为上寿。华封人祝圣人寿,而尧以“寿则多辱”辞之。难道他们真的拘泥于寿夭的问题上吗?显然不是。把庄子《天地篇》的上下文连起来看就会明白。他是主张“不乐寿,不哀夭,不荣通,不丑穷”的,这是十分达观的思想。
 二祝其富。人人都能过富裕的生活,这自然是很好的。但是,尧又辞之,因为怕“多事”。庄子解释所谓“事”是:“上治人者事也。”庄子用他的“无为而治”的政治思想,去代替尧的思想,所以说出了“富则多事”的话。而华封人却以原始共产主义社会的观点,解答了这个问题。他说:“富而使人分之,则何事之有?”从我们现在的观点看来,如果这句话里边不包括绝对平均主义的意思,那就是完全正确的。
 三祝其多子。尧又以“多惧”为理由而辞之。似乎远古时代的人们就已经害怕人口太多的样子。实际上人多力量大,这是真理。天下的事情多得很,只要有工作可做,人多又何必害怕呢?华封人说的对,“授之职,则何惧之有?”“职”就是工作的意思,并非都指的官职。所以说“天生万民,必授之职”。无论从事生产劳动或者担负其他工作,人人都有一定的职责。这种思想难道可以妄加非议吗?
 至于说,“此三者非所以养德也”。这句话更明显的是庄子假借圣人以宣传他的主张。《天地篇》一开始就说:“古之君天下,无为也,天德而已矣。”又说:“无为为之之谓天,无为言之之谓德。”又说:“通于天地者德也。”这些都是无为而治的思想必然达到的逻辑结论。我们完全可以把华封三祝的思想内容,与庄子及其门徒的无为主义区别开来,而决不能因此而忽略了华封三祝的某种积极的含义。

木下 国夫・藤井義則 校正

燕山夜話 第2集14話(通算44話) 华 封 三 祝