第2集燕山夜話-29 新的“三上文章”

燕山夜話

新しい“三上文章”

 文章で苦労している人に二種類ある。一種類は、仕事が忙しい人。思想、意見が頭にあふれ、表現する材料や観点もばっちりであるが、時間のやりくりが付かず、それを文字で表現することが出来ずに大変悩んでいる人。もう一種類は、自由または指定表題で一筆依頼を受けた人士で、材料は山ほどあり、脳が破裂しそうでも、限られた時間内に、条理を追って引き出すことが苦手で、何から書き起こすか猶予するうちに、原稿が間に合わないと心配になり、または書いてはみたが、出来が悪くて、どんどん落ち込む人の類である。
 この悩みを取り払う、いい方法はないか。親しい友人と、しばしば集まってはこの問題について話合った。出てきたのは、各人各様で、巧拙違いはあったが、それぞれが練り、各手法で、悩みの元となる状況、条件を分析した結果の解決策である。その中で、積極的な意見は、個人の研究課題を集団討議し、個人執筆文に集団的修正を加える、といった方法であった。消極的な意見は、手の施しようなしで、十年一剣を磨がき、実力をつけてからこの問題をやり直してもらうというのもあった。
 読者がお求めの私の意見はこうだ。皆さんはこの問題を大げさに考えすぎの嫌いがあるので、小さい問題から着眼し気軽に取り組み、気楽な方法でこの問題を解決するのがよいと思う。諺に、「提起千斤重,放下二两轻」[千斤も二両減らせば、二両軽くなる]とあるように、問題の中には、知らぬ間に解決できる問題も、大げさにすると、却って解決が難しくなるものがある。そこで、皆さまに申し上げたいのは、文章を書かねばらないという強迫観念から解放されることである。特に「文章」は高尚なものだという観念を根本的に変革することだ。ねじり鉢巻きで「文章」を書くよりも、普段の「写话」[話を文字にする]程度がちょうどよろしい。

欧陽修

 ここで難しい科学研究論文を引用するとか、大報告で人を驚かしたりしないが、文章は大文章であればあるほど、長文は長ければ長いほど、書きやすいのだ。もし、小文、短文の類がお手の物だという方であれば、大文章や長文章は、問題なく書ける。小文章、短文章が、何時でも何処でも気軽に書けるなら、キー・ポイントは、問題点を明確に照らし出すことである。それさえ出来れば、あとは、話すように端から書けばよいのだ。
 「文章を書く」という強迫観念を取り除くには、宋代の大文豪欧陽脩がいう「三上文章」は大いに役立つ。我々がこれを率先実践して、新「三上文章」運動なるものを展開してもよかろう。
 宋の董棻が『閑燕常談』という本の中で述べている。「欧陽文忠公谢希深に謂いて曰く: 吾、平生文章を作るに、多く三上に在り──馬上、枕上、厕上也。蓋し唯此を以って思いを属(つづ)るべきのみ。”[欧陽文忠公が謝希深に述べた。私は、通常文章を作るのは、三上に於いて作るのが多い。即ち馬上、枕上、厠上である。ただ、ここでは浮かんだアイデアを綴るのだ。]古来大作家が、率直にのべているように、作家が練る「文思」[作文構想]は、沈思黙考、或いはお芝居にあるように指先で額を弾いて、絞り出すものではない。これと正反対に、考える時間さえあれば、場所を択ばず、思考をめぐらすことが出来るのである。極言すれば、トイレも考えを練るによい時間である。ここで沈思黙考すれば、臭いも気にならず、なんと妙案ではないか。
 欧陽修の経験談は、とても重要である。彼がここで喝破した文章を作る秘訣は、すなわち文章を書く前に「属思」[思いをつづる]することである。それは思考をめぐらし、文章の中心思想とその論点、表現方法、段階的配置など考えを熟成させ、「腹稿」[腹案]を作り上げるのである。このように準備すると、書き始めてから、行き当たる問題も少なく、早く書き上げることが出来る。一篇の文章は、構想がまとまると、書き始めは、頭に浮かぶ想いを、ゆっくりと日頃の口調で、一語一語を口に出し、言った端から字に変換していく。全て書き上げると、手をいれるのも楽だ。
 欧陽脩の方法を学べば、誰でも気軽に文章を書くことができると思う。欧陽修の“三上”のうち、馬上は乗馬をする方以外の人は適応しないが、残りの二上は誰でも出来る。が、馬に乗れない人は、路上、車上、船上で空いた時間にかえても構わない。こうすれば、思考力の鍛錬になり、旅の疲れも感じないから、正に一挙両得である。皆さんがこれを実行すれば、だれでもほいほいと新しい「三上文章」をつくることが出来る。
 けれど、ご注意いただきたいことが二つある。一つは、路上、車上、船上で熱中のあまり交通規定違反を起こしてはならないこと。もう一つは、仕事時間中に考えてはいけません。特に機器を操縦する時は、他のことを考えると混乱して事故のもとになります。よろしいですか、皆さん?正確で健康な思想の持ち主は、文章を書くために、事故など絶対に起こさないものですよ。

訳・北 基行

【 掲載当時の時代考証と秘められたメッセージ 】

新的“三上文章” 」ひとそえ

 短い文章を綴るのも容易ではない。いや、ひとそえのような短い文章もそれなりに難しいものだ。素人なりの準備を整理してみると「属思」から「腹稿」そして「執筆」の段階を踏んでおり、畏れながら中国の練達の士に似た過程を踏襲していることに気付く。
 「属思」は散歩の路上が多い、散漫な想いの骨子のみを頭に残す。
 「腹稿」は眠れぬ夜や早い目覚めの床上でする。枕辺の灯りは点けず散漫な材料を繋いでいく。二度寝して忘れる事もしばしばある。
 「執筆」は勢いと流れを大切にして一気に綴ってみる。
「推敲」が最も大切で、読み直し、考え直し、書き直しを重ねる。
路上、床上、車上、小さな本棚を設えた広めの厠上の新四上となる。
 作者の鄧拓が「文章は高尚であらねばならぬと大げさに考えるな」という指摘したのは何故か?やはり、文筆の世界にも高尚とされる大きな壁があったのだろう。会議には「手」だけを準備して参加すればよいとされ、まず会場では握手、演説には拍手、そして議決には挙手の「三手」の効用で生き抜いた役人・委員が多かったと揶揄される。「三手」は残らないが、文章はいつまでも残るから怖い。

文・井上邦久

新的“三上文章”」 原文

 有两种人时常为文章所苦。一种是工作特别忙的人。他们安排不好时间,有很多思想和意见,也有很多材料和观点,装满在脑海里,就是写不出来,觉得非常苦恼。还有一种人是受邀请或被指定写文章的,时间很紧,材料一大堆,看得脑子发胀,就是憋不出条理来,不知从何写起,深怕交不了卷或者写了根本用不得,更是苦恼。
 要想解除这两种苦恼,有什么办法呢?熟识的几个同志常常在一起谈论这问题。办法人人会想,各有巧妙不同,大概都分析了各种人不同的情况、条件和造成苦恼的原因,也都提出了解决问题的一些办法。其中有积极主张采取个人钻研和集体讨论、个人执笔和集体修改的;也有非常消极,简直认为毫无办法,必须从头苦读十年书,把水平提高了再说的。
 朋友们征求我的意见。我觉得大家似乎把问题看得太严重了,倒无妨从小的方面着眼,采取比较轻松的办法来解决这个问题。俗话说:“提起千斤重,放下二两轻。”有若干问题往往看得太严重了反而无法解决,也许无意中很随便就解决了问题。因此,我愿建议朋友们,首先不要把写文章这件事放在心上,尤其是对“文章”的高深观念要根本改变。与其神气十足地说“写文章”,不如普普通通地说“写话”更好。
 在这里,完全不必拿什么科学研究论文或者写大报告来吓人。要知道,越是大文章、长文章越好写。如果你能够把小文章、短文章写好,那末,写大文章、长文章就不成什么问题了。而小文章、短文章则是随时随地都可以写的。关键只在于你要把问题想清楚,然后就照说话那样写出来。
 为了打破一切对于“写文章”的严重观念,我很赞成宋代大文学家欧阳修的“三上文章”。我想就由我们大家自己动手,来提倡新的“三上文章”又有何妨呢?
 据宋代的董弅,在《闲燕常谈》一书中记载:“欧阳文忠公谓谢希深曰:吾平生作文章,多在三上――马上、枕上、厕上也。盖唯此可以属思耳。”可见古来有许多伟大的作家,说老实话,他们的“文思”并不象一般人设想的那样,一定要正襟危坐,或者如演戏那样用手指敲着自己的脑门,才挤出来的。恰恰相反,只要有思索的机会,到处都可以运用思考。甚至于在厕所里解手,也是思索的好机会。而且,这么一思索,就连臭味也闻不到了,岂不妙哉!
 欧阳修的这个经验谈,十分重要。他道破了做文章的一个秘密,就是在写作之前要“属思”,即运用思考,把文章的中心思想和它的每一个论点与论据,以及表述的方法、层次安排等等都尽量考虑成熟,形成了所谓“腹稿”,这样就可以使写作的时候,减少阻碍,很快能够写成。一篇文章,只要构思好了,那末,下笔写的时候,只要照着所想的,慢慢地象说话一样,一句一句说出来,话怎么说,字就照样写,都写完了再修改也不难了。
 如果学习欧阳修的办法,我以为大家很容易都可以写文章。因为欧阳修的“三上”,除了马上只适合于骑马的人以外,其余二上人人都能用;而我们即便不能在马上构思,却无妨在路上、车上、船上等空隙中构思。这既能锻炼思维能力,又可以忘掉路途的疲劳,真是一举两得。如果人人都这样做,则人人都可以写出新的“三上文章”。
 但是,似乎还有两点应该提起朋友们的注意:一则不可在路上、车上、船上如痴如狂,以致违犯交通规定;二则不可在工作的时候,特别是在机器旁边操作的时候胡思乱想,以免造成事故。可以断定,任何一个思想正确和健康的人,决不会因为想文章而致于误事的!

木下 国夫・藤井義則 校正

燕山夜話 第2集29話(通算59話)「新的“三上文章”