第2集7話 “養生学”を語る第2集7話 

燕山夜話

 先日首都医学会の有志により、元代の丘処機の養生学という見慣れない主題で、白雲観に於いて、討論会が開かれ、人々の注目を集めた。
 丘処機は宋、元両代にわたる道士で、生まれは登州栖霞、後に莱州に移り、長春子と号した。元の太祖ジンギスカンは、丘が養生修練の秘方を知る道士であると聞いて、札八爾と劉仲禄を遣いにやり、丘を招請した。丘処機は徒弟十八人を連れて、一万里の道を走破し、雪山にやってきて、西征の陣幕中のジンギスカンに拝謁した。
 そこで交わされた主な話は、『元史』の『釈老傳』及び明代陶宗儀の『輟耕録』にもあるが、大略以下の通りである。
 “処機言毎に、天下を一にせんと欲する者は、必ず殺人を嗜まざるに在り,問い治を為す方に及び、則ち対するに敬天愛民を以って本と為す。长生久视の道を問われ、則ち告ぐるに清心寡欲を要と為すを以てす。”
 [処機、天下を統一する者は、必ず人を殺さないと口々に言った。政治に質問が及ぶと、敬天愛民を本とすると答えた。長生の道を問われると、清心寡欲が大切だと応えた。]
これからすると、養生学の綱領はどうも、清心寡欲この四文字にあるようだ。
その後、ジンギスカンは、 養生道とは関係のない、次のような勅を下した。
 “丘处机に神仙号、爵大宗師を賜い、天下の道教を掌管せしむ。”
 [丘処機に神仙の号、爵は大宗師を賜う、天下の道教を管轄せよ] こうして、養生学の上に宗教色彩が加えられ、養生学の真の意味が損なわれていった。後の人は、道教を知っても、養生学を知る人がいなくなった。丘処機は道教各派の首領の座にすわり、養生学家とは言われなくなった。
 丘処機は、道教の中でも大きな勢力を有する一宗派に属した。明代に印刷された『三余贅筆』によれば、 
 “道家に南北二宗あり。其の南宗は東華少陽君より、 老聃の道を得ると謂う……その北宗は谓吕岩 金王嘉に授け,嘉 七弟子に授く、其の一が丘处机なりと謂う……。”
 [道家に南北二宗ある。南宗は東華少陽君より、老子の道を得たと謂われる・・・その北宗は呂岩が金王嘉に授け、嘉が七弟子に授け、七弟子のうちの一人が丘処機と謂われる・・・]
 これより明らかなように、当時、丘処機は、道教の中の一派の人として知られ、彼が養生学を講じたことなど知る者がいない。

 その実養生学を極めるには、清心寡欲だけでは足らない。その外にまだよい方法があるようだ。
 何が更に良い方法か?。修練して仙人になる道も考えられる。答えは決してそうではない。 修練を積んで仙人になるのは、本来は道家の考え方であるが、丘処機の教派はこの方法を採らなかった。但し、その結果、志と大いに違う結果となった。
 比較するに儒家が主張するのは、“自然の道を養い、自然の生を養う”であり、道家と比べると、儒家の方がまともである。儒家のこの種の主張と道家の修仙説の間には大きな違いが見られる。

 既に宋代に於いては、欧陽修は当時の道士が養生学を曲解していることに不満を示し、魏晋間に流行った道士養生の書である“黄庭経”に手を加えて、『刪正黃經経序』を書いている。この巻頭で彼は修仙の説に反対している。それによると、
 “無仙子は、何人を為すや知らず。 姓名無く、爵里無し、世 得て而して之を名する莫し。其の自ら無仙子と号する者は、以て世人の仙を学ぶ者に警する也。”
 [無仙子は、どこの人か知らない。姓名が無く、生まれ里もなく、世の中にこれと名指しできるものが無いが、名のみがある。自ら号して無仙子という者は、これ世人の仙人になろうと学ぶ者に警告を発するにあるのだ。]
 これに続けて、彼は物の道理としてつぎのように述べている。
“古より道有れども仙無し。而るに后世の人、道有ることを知り而して其の道を得ず。無仙を知れども而して妄に仙を学ぶ。此れ我の哀れむ所なり。道は、自然の道なり。生すれば必ず死す、亦自然の理なり。自然の道を以って,自然の生を養い,自から戕贼夭阏せず、而して其の天年を尽くす、これ古より聖智と同じくする所なり。”
 [昔から道はあるが仙人の世界はないと謂われる。後世の人は、道の有ることを知るが、その道を得ることが出来ない。それで、仙人の世界はないと知っていても、妄りに仙人になろうと学ぶ。此れが私の哀れむところである。道とは、自然の道である。生を得れば必ず死ぬことは、自然の理である。自然の道を以って、自然の生を養いなさい。自ら自分の体をいじめて若死にしてはいけない。天から与えられた寿命を全うすること、この考えは、太古聖賢の考えと一致する。]
 欧陽修はまだ例を挙げて論点を証明しているが、その例の中に事実かどうかあやしいものも含まれる。伝説であるからといって、全てが否定されるべきでないと思うが、出来るだけ多く例を挙げてそれを補足することにする。

 “禹 天下を走し、四载に乗り、百川を治む。労を其の形にすると謂うべし。而して寿、百年なり。颜子、肃然として陋巷に臥し、簞食瓢饮して、外は物に於いて誘われず、内は心に於いて動かされず、至楽と謂うべきなり。而して年三十に及ばず。これ二人は、皆古の仁人なり。其の形を労するは长年にして、其の楽に安ずる者は短命なり。‥‥‥此れ所謂自然の道を以って、自然の生を養うなり。”

 [禹は天下を駆け巡り、四載に乗って、多くの川の氾濫を治めた。肉体労働をしたが、寿命は百才の長寿であった。顔回は、静かに巷の小屋に寝起きし、簡単な食事と水で生活し、外に誘惑される者なく、内に心に動かされるものなく、正に至楽の生活を送ったが、その命は三十年に及ばなかった。この二人は、古代の仁人であるが、身体を使って働いたものの寿命が長く、安楽を享受した者が短命であった。……此れを自然の道と称し、自然の生を養うということである。]
この一節は大変結構な議論である。ただ、禹の例を挙げたが、それ以外の人であればもっとよかっただろう。ほかにも適例がおおくあるから、欧陽修の論点を補足するこができる。例えば、山で働く老人達だ。長年田野の労動に親しんできたので、年をとっても、体力は青年と変わりがない。以前、新聞で、ソ連の百才以上の老人が報じられたことがあったが、それは皆農民であった。これが、有力な証拠になる。
 従って、養生学を講じる者は、丘処機を研究すると同時に、研究範囲を少し拡大し、元代以前と以後の、各時代における各派の養生学の学説を研究して頂きたい。きっと大きな収穫があるだろう。

掲載当時の時代考証と秘められたメッセージ

「谈“养生学”」 ひとそえ

 宋代の政治家、文学者、歴史家として有名な欧陽修は、「道士の養生学の曲解」に不満を示していたと鄧拓は書いています。「修仙の説に反対している」と欧陽修の著作を引用しながら述べています。「修仙」とは仙人になるための修行のことです。仙人の目指すものは、「不老不死」でした。
 その目的のためには、役に立つのが養生の術であったようです。「清心寡欲」以外には、太極拳に通じる導引術など、気をめぐらして体をコントロールしていくこともその一つでしょう。また、一方では「仙薬」を作って服用することも「不老不死」に至る道でもありました。
 古来、多くの人が仙人を目指しました。特に権力者は「不老不死」を手に入れることを強く望みました。有名なのが秦の始皇帝です。山東半島東方の三神山に仙薬があるという徐福の言葉を信じ、船で仙薬を探させたと史記に伝えられています。三神山は仙人の住む三つの島で、その一つが蓬莱です。山東省煙台市には中国四大名楼の蓬莱閣がありますが、8人の仙人が船出した場所と言い伝えられています。蓬莱閣は日本でも中華料理店の店名に多いですね。

 中国の伝説には800歳まで生きたという彭祖がいて、導引の術にも長けていたそうです。最近では1933年に亡くなった漢方医、李青曇という人が数えで257歳であったという記録がありますが、これは眉唾ですね。生きている間に23回結婚したということです。
 日本の仙人といえば、「今昔物語」にも取り上げられている久米仙人です。修行により飛行の術をマスターしたのに、川で洗濯をしていた若い女性のふくらはぎに心を乱して、落下し神通力を失い、その女性を妻にして暮らしました。身贔屓となりますが、久米仙人の生き方に惹かれます。

谈“养生学” 原文

 前些天,首都医学界的一部分人,在白云观开了一个很别致的学术讨论会,研究元代丘处机的养生学。这件事情引起了许多人的注意。
 丘处机是宋元两代之间的道士,登州栖霞人,后居莱州,自号长春子。元太祖成吉思汗听说他懂得养生修炼的法子,特派札八儿、刘仲禄两个使者去请他。丘处机率领十八名徒弟,走了一万多里路,到达雪山,朝见成吉思汗于西征的营帐中。
 他们当时谈话的主要内容,据《元史》中的《释老传》、明代陶宗仪的《辍耕录》等所载,大概是这样的:
 “处机每言,欲一天下者,必在乎不嗜杀人。及问为治之方,则对以敬天爱民为本。问长生久视之道,则告以清心寡欲为要。”
 看来所谓养生学的纲领,恐怕就在于清心寡欲这四个字。
 讲养生之道倒也罢了,成吉思汗却又下诏:“赐丘处机神仙号,爵大宗师,掌管天下道教。”这样一来,养生学却披上了宗教的色彩,反而逐渐失去了养生学的真义。以致后人只知有道教,而不知有养生学。丘处机自己也成了道教的一个首领,而不是什么养生学家。
 在道教中,丘处机当然是很有势力的一个宗派。据明代都印的《三余赘笔》记载:“道家有南北二宗。其南宗者谓自东华少阳君,得老聃之道……其北宗者谓吕岩授金王嘉,嘉授七弟子,其一丘处机……。”显然,过去人们都只晓得丘处机是道教中的一个教派,有谁去理会他讲的什么养生学呢?
 其实,要讲养生学,光是清心寡欲恐怕还不够,应该有更好的方法才是。
 什么是更好的方法呢?是不是要修炼成仙呢?回答决不是这样。修炼成仙本是道家的想法,丘处机的教派也未尝没有这种想法。但其结果总不免事与愿违。
 比较起来,我觉得儒家主张“以自然之道,养自然之生”似乎更好一些。儒家的这种主张与道家修仙的说法,应该看到是有原则区别的。
 早在宋代,欧阳修就曾因为不满于当时一般道士对养生学的曲解,特地把魏晋间道士养生之书――《黄庭经》做了一番删正,并且写了一篇《删正黄庭经序》。在这篇序里,他一开头就反对修仙之说。他写道:
 “无仙子者,不知为何人也,无姓名,无爵里,世莫得而名之。其自号为无仙子者,以警世人之学仙者也。”
 接着,他阐述一种道理,就是说:
 “自古有道无仙,而后世之人,知有道而不得其道;不知无仙而妄学仙。此我之所哀也。道者,自然之道也。生而必死,亦自然之理也。以自然之道,养自然之生,不自戕贼夭阏,而尽其天年,此自古圣智之所同也。”
 欧阳修还举了实际例子以证明他的论点。虽然他举的例子中有的并非事实,但是,我们无妨用更多的实例去代替它,不能因为他以传说为事实就否定他的全部看法。他举例说:
 “禹走天下,乘四载,治百川,可谓劳其形矣,而寿百年。颜子萧然卧于陋巷,箪食瓢饮,外不诱于物,内不动于心,可谓至乐矣,而年不及三十。斯二人者,皆古之仁人也。劳其形者长年,安其乐者短命。……此所谓以自然之道,养自然之生。”
 这一段议论很好。如果用别的事实代替大禹的例子,就更好。我们实际上可以举出无数事例,来证明欧阳修的论点。有许多劳动人民,如山区的老农,长期从事田野劳动,年纪很大,身体与青年人一样健康。不久以前,报纸消息说,苏联有许多百岁以上的老人,也都是勤劳的农民。这些就是有力的证据。

 因此,讲养生学的人,在研究丘处机的同时,我想无妨把研究的范围更加扩大一些,多多地收集元代以前和以后各个时期、各派和各家有关养生的学说,加以全面的研究。这样做,收获可能更大。

木下 国夫・藤井義則 校正
燕山夜話 第2集7話(通算37話) 谈“养生学”