第2集第4話 広陽学派

燕山夜話

 大興県は北京市に所属する県であるが、清初、ここから一人の大学者が出ている。劉献廷がその人であり、その当時、黄宗羲、顧炎武、王夫子(之)等と等しく名を連ね、革新思想の一派を形成した。           数年まえ『紅楼夢』論争が熱かった頃、民主傾向の新進思潮が、清初の中国封建社会内部にすでに芽生えていたことを証明する為に、多くの方が劉献廷の言葉を引用していたことを、ご記憶のかたもあるだろう。事実はまさにこの如くで、劉献廷一派の革新思想は、当時の社会に対して曾て強烈な影響を与えた。

劉献廷、字は継荘で、自ら広陽子と号した。劉献廷の学派が、広陽学派と呼ばれる所以である。彼の著作の大半はすでに遺失して、いまは『広陽雑記』一冊が残るのみである。彼の学派を呼ぶのに、特に広陽を用いるのは、彼を記念する特別の意味があるからである。

 劉献廷が治めた学域は、黄宗羲、顧炎武、王夫子(之)等と比べて広大無辺で、且つ目的性が明確、実用に重点が置かれた。しかし彼の境遇はたいへんみじめなものであった。康煕年間に、彼は数多くの実地調査を行い、多数の重要著作を起草したが、すべて散逸してしまった。後に、乾隆年間の大学者、全祖望が彼の伝を立て、その中でつぎのように述べた。

 “諸公の著述は、皆海内に流布し、而して継荘の書独り甚だ伝せず、因りて之を求めること二十年にして得ベからず。近く始めてその広陽雑記を杭の趙氏に見得たり……嗚呼、この如き人材にして、而して姓氏は将に狐貉の口に淪ちなんとす、惧へざるべき哉!継荘の学、主に経世にあり。象より、緯、律、歴以て辺塞関要、財賦、軍器の属、旁にして歧黄者流に及び、以て釈道の言に及び、留心せざる無し、深く彫虫の技を悪む。”

[諸公の著書は、皆国内外に流布残存しているが、継荘が著した書のみ全く伝わっていない。それでこの二十年捜しもとめつづけたが発見することができなかった。最近、杭州の趙氏が所有する広陽雑記をやっと見つけた。……嗚呼、何という事だ、こんな優れた人材でありながら、姓氏はやがて狐か狸のような似非学者の口に落ち込んで、あたかもそれらがとなえた説となっていくだろう、恐ろしいことだ。継荘の修めた学問の目的は経世にあった。暦から緯、律、歴史は辺塞の公文、財務、軍器の類で、傍系の色事情まで及び、佛経の言葉などあらゆることに気を留めたが、飾って作る文を嫌った。]

 全祖望の述べる所によれば、劉献廷に多くの著作があり、その中で成果の大きい数種類で、例えば、彼の“嘗作新因譜”の如きは、華厳字母により梵語、ラテン語、蒙古語、満州語に入り、各部の韻母と結合させ、それで“斉しからざる声は万とあれども、此に摂む”に至った。同時に彼は、“四方の土音を譜せんと欲し、以て宇宙の元音の変を窮む。乃ち新韻譜を取るを主となし、而して四方の土音を以て之を填む。” 彼はまた方輿の学を研究し、“線表を正確にきざみ、季節の前後、日蝕の分秒、五星の陵犯占験、皆推すこと可なり。” 農地水利についても、彼は独特の見解を有した。禮、学、医薬、数学に於いても同じくすべて研究がある。彼の学問は淵博で、曾て『明史』、『一統志』の編纂事業に招聘された。彼は同僚を次のように評価している。“諸公の考古余あり、而して未だ実用に切ならず。”これは劉献廷がいかに実用の学を重視したかを説明するに足る。

 当時、史学者の万斯同が有名で、劉献廷と共に『明史』を編纂した。全祖望によると、“万先生終朝危坐観書す、或いは瞑目静坐す。継荘は遊ぶを好み、毎日必ず出で、或る時は旬を兼ねて返らず。帰れば以て其の歴する所を万先生に告ぐ。万先生亦其の読む所の書を以て之を証し、語畢れば復出づ。”

[万先生は毎朝、正坐して読書するか、または沈思黙考された。継荘といえば、遊ぶのが好きで、毎日出所してくるが必ず外出して帰ってこない。時には十日経っても帰ってこないことがある。帰ってくると見聞きしたことを必ず万先生に報告した。万先生は、読んでいる本で、その報告内容を照らしあわせ、話が終わるとまたすぐに出かけた。]これより、劉献廷が現地調査に従事した状況がよくわかる。

 当時彼の同僚に、もう一人大興同郷の人、名を王源、字を昆強、号を或庵と呼ぶ人があり、曾て『劉処士墓表』を作った。その中で劉献廷の少年時代について述べている。“読書は毎竟夜臥さず、父母禁じ膏火を与えず、則ち香を燃やして之に代う。因りて一目眇して、又其を折り左肱し、落落として蔽れ衣冠を摂し、風塵の中に躑躅す。人敢えて之を易(あなど)る無し。蓋し其の心郭然と大公にあり、天下を以て己が任と為す”

[毎夜徹夜で本を読んだ。父母はそれを禁じ灯火を与えなかった。彼は、線香に火をつけて代用した。線香の明かり目を細めて字を拾えば、本を伏せ左の脇の下に挟み、破れ衣冠をつけて、とぼとぼと、風塵のなかを漂った。が、敢えて彼を侮る人は居なかった。彼には、天下を治めるという己が任務、豁然たる大公があったからである。]その後、

 “九州を遍歴し、其の山川の形成を覧し、遺佚を訪ね、其の豪傑と交わり、博く軼事を采し、以て益々其の見聞を博め、而して其の学ぶ所を質証す”。

[中国の至る所を遍歴し、各地の地形を眺め、忘れられた遺跡を訪ね、その地の豪傑と交わり、埋もれた歴史を採集し、益々見聞を広め、本で学んだ事柄を現場で実証した。]劉献廷の勤苦学習と実践検証を以て学問する態度は、ここより非常に明白にみて取れる。

 それでは劉献廷は政治上にいかなる進歩的表現をしたのか、彼の農民一揆に対する態度はどのようであったか、など関心を持つ人より質問があった。我々はここで彼の政治観点を詳述する紙幅がたりないが、王源が述べた次の言葉、“志は天下後世に利済し、人才を造就するに在り、而して身家は計る所に非ず”[志は天下と後世の人々の便利と有益、且つ人材の育成に在って、個人の利益など一切考えていない]、全祖望が彼について述べた、“蹤跡は尋常の遊子閲歴する所に非ず、故に諱みて人に知らしめざる所在るに似たり。”[訪ね歩いた跡は、尋常な遊子の物見遊山する場所ではなく、人に知られたくない深い理由があるように思えた]を見れば、彼と当時清代の封建統治者は如何に先鋭な対立関係にあったか十分に想像することが出来る。彼の農民一揆にたいする態度に至っては、当然同情的態度を抱いていた。例えば、当時清朝の統治者は張献忠が人を殺すこと草のごとしと大いに誇張したが、劉献廷は却って『広陽雑記』の中でこのように書いている。“余聞く、張献忠衡州に来り、一人たりとも戮せず。以て婁に聖功を問う、則ち果然なり。”[私が聞いたところでは、張献忠が衡州にやってきたが、一人の人をも殺さなかった、と。そこで子分に親分張献忠の功績があったかと聞いたら、何と、あったというではないか。]これが当時の農民一揆軍のデマと誹謗一切に対して存在しなかったことを述べているではないか。

 北京の人々、特に大興の人々は、劉献廷のような歴史人物と彼の学派の存在で鼻高になる必要はないが、前人の遺産を学習し継承するうえで、もしできるならば、広陽学派の思想内容をさらに一歩研究するため、劉献廷の遺作を捜査し続けてもよいのではないか。

「広陽学派」ひとそえ

 「紅楼夢」論争に関係して、劉献廷の言葉が引用された、と書かれています。さて、「紅楼夢」論争とはいかなるものだったのでしょうか。

 「紅楼夢」は清朝大貴族の栄華と没落を悲恋物語として描いた中国の長編小説です。原作者は清時代の曹雪芹(そうせつきん)で、乾隆帝時代の1792年に刊行されました。「紅楼夢」論争は、1954年秋に火がつきました。実証的研究から「紅楼夢」は、曹雪芹の自伝的要素が強いと論証したのが新文学運動の先駆者、胡適でした。その系統を引き継ぐ兪平伯も、原作者の自伝であると主張しました。これに対して大学を出たばかりの2人の青年が、「封建社会の崩壊を描いたリアリズム文学」と主張し、兪平伯を批判したのです。中央の有力文芸誌は掲載を棚上げにしていましたが、毛沢東の支持を得て人民日報に掲載されました。そして、これをきっかけに毛沢東は「紅楼夢研究問題に関する書簡」を出し青年らの主張を支持し、兪はブルジョア知識分子として批判されたのです。

毛沢東は解放後の知識人の意識変革をめざす大運動を画策し、 1966年に起きた文化大革命の伏線のような展開をしました。

 鄧拓はこの論争についての思いがあったのではないでしょうか。劉献廷は農民一揆に対しても、デマと誹謗はなかったと現地調査から結論しました。そのため清朝の統治者と対立したという記述は、実証主義の重要性を強調しているようにみえます。うがった見方をすれば、胡適、兪平伯の文学作品への考証の態度に賛同しているのではないでしょうか。「紅楼夢」の時代背景には、清朝の「字之獄」(文字の獄)がありました。排満思想を摘発する思想言論統制は高まっていました。その時代と解放後の知識人統制の類似性を、鄧拓は感じていたのかもしれません。これは私の独断ですが、清朝の皇帝を毛沢東になぞらえたのではないでしょうか。文化大革命で非業の死を遂げた鄧拓の運命を予感させます。

文・斎藤治

广 阳 学 派 原文

北京市所属的大兴县,在清代初年有一位著名的学者,当时与黄宗羲、顾炎武、王夫之等人齐名,形成了一派革新的思想,他就是刘献廷。

大家可能还记得,前几年在讨论《红楼梦》问题的时候,许多文章的作者都曾引用过刘献廷的一些言论,以证明清代初年在中国封建社会内部,已经出现了一种具有民主倾向的新兴思潮。事实的确是这样。刘献廷这一派的革新思想,对于当时的社会曾经发生了强烈的影响。

刘献廷的这个学派,称为广阳学派是比较恰当的。因为刘献廷字继庄,自号广阳子,他的著作大半失传,留下的只有《广阳杂记》一种。特别用广阳称他的学派,也含有纪念他的特殊意义。

如果与黄宗羲、顾炎武、王夫之等人相比,那末,刘献廷治学的范围更加宽广,目的性更加明确,更加讲究实用,而他的遭遇却更坏。他在康熙年间调查了许多实际材料,起草了许多重要著作,但是都失传了。后来乾隆年间的大学者全祖望为他立传,其中写道:

“诸公著述,皆流布海内,而继庄之书独不甚传,因求之几二十年不可得,近始得见其广阳杂记于杭之赵氏。……呜呼,如此人才,而姓氏将沦于狐貉之口,可不惧哉!继庄之学,主于经世。自象、纬、律、历以及边塞关要、财赋、军器之属,旁而歧黄者流,以及释道之言,无不留心,深恶雕虫之技。”

据全祖望所述,刘献廷有许多著作,其中有几种成就最大的,如他“尝作新韵谱”,以华严字母,参入梵语、拉丁语、蒙古语、满洲语,与各部韵母相合,于是“万有不齐之声,摄于此矣”。同时,他“又欲谱四方土音,以穷宇宙元音之变。乃取新韵谱为主,而以四方土音填之”。他还研究方舆之学,“为正切线表,而气节之先后,日蚀之分秒,五星之陵犯占验,皆可推矣”。对农田水利,他也有独到的见解;对于礼、乐、医药、数学同样都有研究。由于他的学问渊博,曾被聘请参与《明史》、《一统志》的编纂工作。他对于同事们的评价是:“诸公考古有余,而未切实实用。”这就足以说明刘献廷是多么重视实用之学了。

当时与刘献廷一起修《明史》的是著名的史学家万斯同。据全祖望说:“万先生终朝危坐观书,或瞑目静坐;而继庄好游,每日必出,或兼旬不返。归而以其所历告之万先生。万先生亦以其所读书证之,语毕复出。”由此可见刘献廷从事实际调查的情形。

当时与他同事的,还有一位他的同乡大兴人,名叫王源,字昆强,号或庵,曾作《刘处士墓表》,其中说到刘献廷少年时,“读书每竟夜不卧,父母禁不与膏火,则燃香代之。因眇一目,又折其左肱,落落摄蔽衣冠,踯躅风尘中,人无敢易之者。盖其心廓然大公,以天下为己任”。所以,到后来“遍历九州,览其山川形势,访遗佚,交其豪杰,博采轶事,以益广其见闻,而质证其所学”。刘献廷勤苦学习和以实践验证学问的态度,从这里可以看得非常清楚。

有人特别关心地问道:刘献廷在政治上有何进步表现?他对于农民起义的态度,又是如何的呢?我们在这里不能详述他的政治观点。但是,只要看王源说他“志在利济天下后世,造就人才,而身家非所计”,全祖望说他的“踪迹非寻常游士所阅历,故似有所讳而不令人知”,这就不难想见他与当时清代的封建统治者是站在何等尖锐对立的立场上了。至于他对待农民起义,当然是抱着同情的态度。比如,当时清朝的统治者极力渲染张献忠杀人如草;刘献廷在《广阳杂记》中却写道:“余闻张献忠来衡州,不戮一人。以问娄圣功,则果然也。”这岂不是把当时对农民起义军的一切造谣诬蔑都驳倒了吗?

北京的人们,特别是大兴的人们,虽然不必因为有刘献廷这样一个历史人物和他的学派而骄傲,但是,为了学习和继承前人的遗产,如有可能,似乎还可以继续搜求有关刘献廷的各种遗作,以便就广阳学派的思想内容作进一步的研究。

木下 国夫・藤井義則 校正
燕山夜話 第2集4話(通算34話) 広陽学派