第2集第1話 アメリカ大陸を発見したのは誰か

燕山夜話

アメリカ大陸を発見したのは誰か? 定説は、イタリアのコロンブスが十五世紀にアメリカ大陸を発見した、であることはご存じの通りであるが、なんと、この答えが今になって揺らぎ始めたのだ。

 『知識は力なり』の1961年8月号に、予想外の新奇な資料が掲載された。それによると、コロンブスが1492年にアメリカ大陸を発見する以前の、千年も前に、中国人がアメリカ大陸に上陸したというのだ。この資料によると、五世紀ころに、中国仏教徒がアリューシャン群島とアラスカの沿岸をつたって、アメリカ大陸かメキシコあたりに到着したという。しかもこの僧はそこの物産や風俗習慣を書き残したそうだ。また資料はこうも指摘している。メキシコやペルーの古代遺跡を発掘中に、中国のものそっくりな仏像や、アジア風の古代建築遺跡や彫刻を発見した。ある学者は、メキシコの最大民族の一である、アシトカ族の文化すべてが古代中国に源流を持つという。この資料の中国版はロシア語版からの編集であり、その信頼性を保証するために、本紙編集部はロシア語の『知識は力なり』のオリジナル原稿を見せてもらった。重要ポイントが抜け落ちている箇所が若干みつかった。ロシア語の文件ではこのように述べている。中国仏教徒が大西洋彼岸の国家を歴遊した、その国家名がロシア語で、“фУ─ШАΗ”このように書かれている。この一語が重要で、これがこの問題解決の重要なキー・ポイントとなった。

私は、ロシア語の音韻に照らして、反復考証の結果、そのアメリカ大陸にあった国家は、中国古代の史籍中に記されている“扶桑”であることを発見した。『知識は力なり』の資料が信頼できるならば、もう一歩進めて、中国古代に“扶桑”と呼ばれた国は、“メキシコ”というべきである。過去の人々扶桑を日本であるとしたが、それは誤りである。“倭国”が古代史における日本であって、扶桑こそがメキシコである。

唐代の姚思廉が編さんの『梁書』巻五十四の、『東夷列伝』に、次の様な重要な記述があることを見つけた。これが手掛かりとなった。

“扶桑国は、斉の永元元年、其国に沙门慧深あり、来りて荆州に至る。説いて云く、扶桑は大漢国の東二万余里に在り、地は中国の東に在る。其の土 扶桑木多し、故に以て名と為す。扶桑の葉は桐に似たり、而して初生じて笋の如し。国人これを食う。実は梨の如く而して赤し。其皮を績いで布を為し、以て衣を為し、亦以って绵と為す。板屋を作り、城郭無し。文字あり,扶桑の皮を以て纸と為し。‥‥‥国王行けば、鼓角導く従する有り。その衣色年に随いて改易す。‥‥‥牛あり、角甚だ長く、角を以って物を載す、至りて二十斛に勝う。車に馬車、牛車、鹿車あり。国人鹿を養い、中国の畜牛の如く、乳を以て酪を為す。梨あり,年を経て壊せず。蒲桃多し。其地铁なく铜あり,金银は貴ならず。市に租估なし。その婚姻は、婿の女家に往き门外に屋を作り、晨夕に灑掃す。年を経て,而して女悦ばずんば、即ちこれを駆い、相悦べば乃ち婚なる。”

  [扶桑国に、斉の永元元年に、其の国に沙門慧深なる者が、荊州に来て、述べた。“扶桑は大漢国の東二万余里にあり、その地は中国の東である。その土地には扶桑の木が多いので、その名を国名にした。扶桑の葉は桐のようだ。出始めはタケノコと似ている。現地人はこれを食用にする。その実は梨のようで赤い色をしている。扶桑の皮を紡いで布を作り、その布から衣類を作る。またそれから綿をつくることも出来る。木の板で小屋を作り、城郭を造らない。文字を持ており、扶桑の皮を紙とする。‥‥‥国王が行くところ、角笛を吹いて先導する隊がある。隊員の衣服の色は、年ごとに替える。‥‥‥牛は。角が長い。角に物を載せることが出来る。二十斛(十斗)まで耐えることが出来る。車両には、馬車、牛車、鹿車がある。現地人は鹿を飼い、中国の畜牛のようで、その乳から酪製品を作る。梨があり、一年経っても腐敗しない。蒲桃が多い。当地には鉄がなく、銅がある。金銀は価値が低い。市場には租税がない。当地の婚姻の風習は、婿が嫁の家にゆき門外の小屋を作り、朝夕掃除をする。一年経って、女方が良しとしなければ、男を追い出し、良しとすれば婚姻が成立する。”]

この一節のおもな状況を、上述の資料と照らし合わせると、このように云うことが出来る。第一は、其の描写する所はまさに五世紀の情況であるが、永元元年は紀元四九九年であり、五世紀末に相当する。第二は、沙門慧深なる僧は、名僧か、それとも一般の仏教徒か。第三は、文中にある扶桑の産物と風俗習慣は、正にメキシコのそれに相当する。しかも。この文章は唐代の李延壽が編纂の『南史』巻七十九の中にも重複して現れる。『梁書』と『南史』は唐代の撰者によって書かれ、年代は南北朝と僅かにずれがあるが、見聞の内容は比較的信頼性が高い。ただ我々はこれに注意を払ってこなかっただけだ。

史籍の記述と外文資料の相違点が一つあるがそれが少し気になるところだ。それは、慧深の国籍が考証されていないことだ。『梁書』では、“其囯有沙門慧深,來至荊州”[其の国に沙門慧深あり、来たり荊州に至る]と書かれており、慧深が扶桑国よりやって来たような表現となっている。これは将来の研究結果を俟つとしよう。とは言っても、この歴史的記録は、中国人とアジア人が早くも五世紀頃に、アメリカ大陸国家や人民と頻繁に往来があったことを物語っている。当時アジア大陸からメリカ大陸に行くには、アリューシャン列島とアラスカ海岸に沿って前進すれば着くことが出来、そう困難なことはなかったのだろう。中国人とアメリカ大陸各国間の人民は確かにこの時代から往来していたのだ。この史実には大きな意味があり大切である。

このように考えてくると、コロンブスがアメリカ大陸を最初に発見した人ではなくなってくるが、そこのところは、彼が欧州から米州への新航路を発見した人である事実がある以上、コロンブスの功績を完全に抹殺してはならない。古代扶桑国にまつわる問題はほかにもあり、今後更に研究を進めるために、まだいろいろの資料を紹介したいのだが、今晩はこの辺で措くことにして、お願いとして、皆様よりの暖かいご支声援のもとに、本件に関する資料や話題の提供を期待いたしたい。

燕山夜話 第2集第1話 ひとそえ

 作者の馬南邨(鄧拓)は、1961年10月30日に、第二集30編を出版する際に「巻前寄語」を短く綴っています。

 まず『燕山夜話』連載中に多くの読者から意見や補足資料が寄せられ、すべて『北京晩報』編集部で対応していることを報告し、親愛なる読者や編集・校正・出版担当の同僚に対しての謝意を述べています。次に『燕山夜話』のテーマには複雑なものもあり、例えば第1話の「谁最早发现美洲(アメリカ大陸を発見したのは誰か)」は多くの検索や検証が必要で紙幅に限りがあることを正直に述べています。そして『燕山夜話』という小さな園で生活することを決心して、長文で読者や編集者の時間と精力を浪費したくないとしています。語り足らなければ、次回(「『扶桑』小考」)や次々回やその外の論考で補足するとしています。そして結論として、「テーマが多ければ多く書き、少なければ少なく書き、書くことが無ければ書かない」と綴り誠実に守っていく宗旨とするとしています。ここに作者の基本的な姿勢と誠実さが表れていると感じます。とても大切な短い文章ではないでしょうか。

鄧拓(1912~1966)

谁最早发现美洲 原文

最早发现美洲的是谁呢?这个问题本来已经有了答案,人们都知道是十五世纪意大利人哥伦布最早发现了美洲。然而,现在这个答案却发生了动摇。

在《知识就是力量》一九六一年八月号中,刊载了非常新奇的资料,说明中国人到达美洲比一四九二年哥伦布发现美洲还要早一千年。

这个资料向我们介绍,在公元五世纪的时候,中国的佛教徒,曾经沿着阿留申群岛和阿拉斯加,到达了美洲的墨西哥等地,并且用文字记述了那里的物产和风俗习惯等情形。资料同时指出,在墨西哥和秘鲁的某些古国遗址的发掘工作中,还发现了与中国一样的佛像;当地古代建筑和雕刻,也是亚洲的风格;甚至有些学者认为墨西哥最大的民族之一――奥西德克族的全部文化都起源于古代的中国。

为了判明这个资料的可靠性,报纸编辑部调阅了俄文《知识就是力量》的原稿。原来这个资料的中文稿是根据俄文摘编的,有若干重要的删节。俄文稿中说到,中国佛教徒游历了大西洋彼岸的国家,那个国家的名字是“фу―ⅢAH”。这一点非常重要,它使我们能够进一步确切地找到这个问题的新答案。

按照俄文的读音,我在反复考证之后认为,那个美洲的国家,在中国古代史籍中的中文译名就是“扶桑”。如果《知识就是力量》的资料介绍是可靠的话,那末,还可以更确切地说,中国古人所谓“扶桑”便是指的“墨西哥”。过去一般人把扶桑当成日本,那是错误的。古代史书中称为“倭国”的才是日本,而扶桑则是墨西哥。

何以見得呢?打开唐代姚思廉編撰的《梁書》卷五十四,我們在《東夷列傳》中就会看到如下的一段重要记载:

“扶桑国者,齐永元元年,其国有沙门慧深,来至荆州,说云:扶桑在大汉国东二万余里,地在中国之东。其土多扶桑木,故以为名。扶桑叶似桐,而初生如笋。国人食之,实如梨而赤,绩其皮为布,以为衣,亦以为绵。作板屋,无城郭,有文字,以扶桑皮为纸。……国王行,有鼓角导从。其衣色随年改易。……有牛,角甚长,以角载物,至胜二十斛。车有马车、牛车、鹿车。国人养鹿,如中国畜牛,以乳为酪。有桑梨,经年不坏。多蒲桃。其地无铁有铜,不贵金银。市无租估。其婚姻,婿往女家门外作屋,晨夕洒扫。经年,而女不悦,即驱之;相悦乃成婚。”

这一段文字记叙中,有几点重要的情况,与上述资料相吻合,就是说:第一、它描写的恰恰是五世纪的情况。齐永元元年即公元四九九年,是五世纪的末期。第二、沙门慧深是当时著名的僧人,还不只是一般的佛教徒。第三、文中所述扶桑的物产和风俗习惯,的确很象墨西哥。而且这一段文字在唐代李延寿编撰的《南史》卷七十九中又重复出现了一次。《梁书》和《南史》同是唐代的作家编撰的,他们的时代离南北朝不远,见闻当然比较确实可信。只是我们过去没有注意罢了。

不过有一点是史籍记载与外文资料相异之处。这就是慧深的国籍尚待考证。《梁书》写的是“其国有沙门慧深,来至荆州”,好象慧深是从扶桑国来的。这些还需要进一步加以查考。

但是,无论如何,这一段历史记载,总可以说明中国人和亚洲人,早在公元五世纪的时候,就已经与美洲的国家和人民有了亲密的往来。当时从亚洲大陆到美洲大陆,只要沿着阿留申和阿拉斯加前进,可能并不很困难。因此,中国人和美洲各国人民的友谊无疑地具有悠久的传统,这是多么重要的历史事实啊!

如此说来,哥伦布显然不是最早发现美洲大陆的人了。但是,我们也不要把哥伦布的功绩完全抹杀,他毕竟可以算是发现由欧洲到美洲的新航路的第一人。与古代扶桑国有关的问题还不少,为了进一步研究这些问题,还有许多值得介绍的材料,今天说不完了。希望热心的朋友们也能够多多提供宝贵的资料和线索。

木下 国夫・藤井義則 校正
燕山夜話 第2集1話(通算31話)アメリカ大陸を発見したのは誰か