第2集燕山夜話-25 “颜苦孔之卓” 

燕山夜話

“顔回、孔子の卓越さに苦しむ”

 前回『夜話』で『揚子法言』を取り上げた。その中に「顏苦孔之卓也」という句が出てきたので、説明する予定であったが、紙幅の都合でできなかった。その後、数名からこの句を説明してほしいという依頼をうけた。今夜は、ご依頼にお応えして、この句について述べようと思う。
 『揚子法言』の巻頭の見開きは『学行篇』で、次の文章で始まる。
 「或(あるひと)曰く、『我をして纡朱懐金せしむれば、其の楽 量るべからず』。曰く、『纡朱怀金する者の楽は、颜氏子の楽に如かず。颜氏子の楽や,内なり。纡朱怀金の楽は、外なり。』或(あるひと)曰く、『問うを請う、屡空の内は。』曰く、『颜 孔ならず、天下を得ると雖も以て楽と為すに足らず。』 然らば、亦苦あるか。曰く、『顔は孔の卓の至りに苦するなり。』或る人瞿(く)然と曰く、『兹(こ)れ苦なり。 只其れ以て楽を為す所なりや?!』」
[ある人が言った。『私に朱を紆い金を懐く高官にさせてくれれば、その楽しみは計ることが出来ない程大きい。』われは言う、『朱を紆い金を懐く高官になる楽は、顔氏子の楽には及ばない。顔氏の楽は、内の楽である。朱を紆い金を懐く楽は、外の楽である』ある人が驚いて言う。『屢空の内について質問いたします。』お答えします。『顔回は孔子が目標で、天下を取っても楽とは言えなかった。』それでは、苦はあったのか。申します、『顔は孔子の卓越の至りに苦しんだのである。』ある人は驚いて言った。『それは苦ではないか。苦が楽の原因になるだろうか。』]

揚子法言

 この句は版本により若干の異動がある。例えば、前に引いた句では、晋代の学者李軌の本によると「顔苦孔之卓之至也」とあり 、宋代の学者呉秘の本には則ち「顔苦孔之卓也」とある。差は「之至」二字であり、大勢に関係ない。しかも「顔苦孔之卓也」の句の次を、宋代の学者、宋咸の注釈によると、「颜の苦しむ所は它(ほか)ならず、惟孔子道の卓遠を苦しむのみ。故に曰く、『 之を仰げば弥(いよ)いよ高く、之を鑿(けず)れば弥(いよ)いよ坚し。』」[顔が苦しむのは、他ではない、孔子の道が高遠なることを苦しんでいるのである。だから、『孔子の道を仰ぐとそれはどんどん高く聳え、この道を穿とうすれば、するほど堅くなるのである。』]ここを、呉秘の注釈に照らすと、「颜子曰く、『如(もし)し立つ所有れば,卓なり、之に従わんと欲すと雖も,由(よ)るところ末(な)きなり。』」[顔子が云う、『立つところが有っても、それは極めて高い。習いしたごうと思っても、何処から入るべきか入口が見つからない。』]以上の通りで、上下文を読み、この注釈を見ると、ここの意味するところは極めて明確である。
 主旨は明白で、通読すれば、倦まず弛まず勉強し、真理を追求することを強調している。これは、学問をする基本的姿勢である。ゆえに『学行篇』は『法言』の第一篇に置かれ、大きな意味がある。この本の作者、揚雄は漢代の著名な学者である。四川の成都に生まれ、詞賦文章に巧であり、司馬相如と文腕を争った。博学であり、深く掘り下げて思考することが得意で、哲理を明らかにした『法言』、『太玄』等の著作がある。彼は『易経』になぞらえて『太玄』を書き、『論語』になぞらえて『法言』を書いた。揚雄は『法言』の巻首にこう書いている。「撰するに以て十三卷を為し、論語に象(なら)い、号して曰く法言と。」この文章の語気より、作者が所謂儒家の聖人である孔子と、その人の語録――『論語』を目標にしたことが伝わってくる。

揚雄

 揚雄は、己が生涯の学問と主張はすべて、儒家の孔子学説に根拠を置いたという。実際は老子や荘子の思想が混在するのであるが、上述の引用文を分析すると、揚雄は、顔回が孔子を学んだ態度を、すべての学者が見習うべき模範とした事が明らかである。揚雄は、孔子が周公等を学んだ例も挙げているが、やはり顔回が孔子を学んだ例に重きを置いている。彼の言わんとするところは、学者は理想の聖人、例えば周公、孔子のような人物を、自己が努力学習する模範に掲げることであった。
 顔回が孔子を学ぶことを自己最大の喜びとしたと揚雄は繰り返し述べている。顔回のこの種の喜びは、内在的精神世界の真の喜びで、豪華な物質を享受する如何なる喜びと比べ物にならない。孔子が学んだように学ぶことが出来なければ、たとえ天下を取ったとしても、顔回は全く喜ばなかっただろう。顔回を苦しめたのは、孔子があまりにも崇高で卓越しており、まったく歯が立たなかったことであろう。それで「顔 孔之卓を苦しむ」と述べたのである。若しもその語気を強調して云うと、孔子さまは崇高の至り、卓越の極みで、学ぶにも学びようがない、だから孔子の卓なるに苦しむと云ったのである。しかし、見落としてはならないのは、学び難く苦闘する心境こそが、学問をする人のみが味わうことのできる楽しみであることだ。
 ご承知の通り、孔子は曾て顔回を誉めてこう言った。「一箪食,一瓢饮,巷に居陋して、人其の憂いに堪えず、回はそれでも其の楽しみを改えず。贤なるかな回は。(論語雍也篇)」顔回は、貧困家庭の出身であったが、生まれながらにして資質に恵まれ、貧しくても学を好み、孔子門下の最優秀生であった。揚雄が彼の著作の中で何度も顔回を取り上げているが、これには道理が無いわけではない。歴代の儒者は皆、顔回と孔子の故事を後の人を教育する材料や試験論文のテーマとした。
 明代の洪武三年から科挙が開始され、この後八股文の題目に、聖人の言葉が切り離せなくなったのである。ところが、明代の八股文の題目は清朝の出題範囲よりも更に広かったので、前回の《夜話》でのべた督学の徐文貞は秀才が引用した《揚子法言》の文句を、杜撰だと述べて、笑い話になった。
 現在我々は揚雄の著作『法言』等については、もう差し障りなく、研究を進めるべきである。揚雄が尊崇した顔回の孔子学習経験を、批判的精神を以て運用し、正しい真理追究と学習態度で臨めば、その益はたいへん多いと思う。

訳・北 基行

【 掲載当時の時代考証と秘められたメッセージ 】

苦孔之卓」ひとそえ

 前回の文章が鄧拓にしては、あまりにも大上段に構えたせいか、生煮え・説明不足或いは本人の消化不良が発生したかも知れない。今回はその解説、弁明に終始している印象が残る。

 それにしても「孔子」「論語」の文字が頻出していることに驚く。二十世紀初頭からの反封建主義の潮流が続き、儒教を否定的批判的に捉える政策や運動のなかで、鄧拓の文章は反骨というには挑戦的に過ぎる印象がある。文化大革命の「文化」には「儒教文化批判」の要素が強く含まれていると思うが、その矛先は鄧拓を追い詰め、「批林批孔運動」で林彪・周恩来への批判につながり、儒教の聖地の山東省曲阜の三孔(孔廟、孔林、孔府)への破壊活動にエスカレートした。1990年代初頭に曲阜で無残に破壊された石碑群を前にして兵たちの夢の跡を感じたことを思い出す。

 その後、曲阜三孔は世界文化遺産に登録された。2004年から世界各地の教育機関に中国文化センターが設立され、共産党の影響下のその統一名称が孔子学院とされている。

 孔子の卓(卓越・卓抜の卓)に苦しむのは顔回だけでなく、現在に至る人々の多くにも同様のことが言えるような気がする。

文・井上邦久

“颜苦孔之卓” 原文

 前次的《夜话》曾经提到《扬子法言》中的一句话――“颜苦孔之卓也”。 当时因为篇幅的关系,没有对这句话做什么解释。后来有几位同志提出建议,要求把这句话的意思,做一番必要的说明。我接受这个建议,今晚就来谈谈这个问题。
 在《扬子法言》开宗明义的《学行篇》中,有一段文字写道:
 “或曰:使我纡朱怀金,其乐不可量已。曰:纡朱怀金者之乐,不如颜氏子之乐。颜氏子之乐也,内;纡朱怀金者之乐也,外。或曰:请问屡空之内。曰:颜不孔,虽得天下不足以为乐;然亦有苦乎?曰:颜苦孔之卓之至也。或人瞿然曰:兹苦也,只其所以为乐也与?!”
 这一段文字,在不同的版本中也略有出入。比如,原先引用的这一句,在晋代学者李轨的本子上是“颜苦孔之卓之至也”;在宋代学者吴秘的本子上则是“颜苦孔之卓也”。差别只在于有没有“之至”两个字,其实关系并不大。而在“颜苦孔之卓也”这一句的下面,我们看到宋代学者宋咸的注解是:“颜之所苦无它焉,惟苦孔子之道卓远耳。故曰:仰之弥高,钻之弥坚。”同时,吴秘的注解是:“颜子曰:如有所立,卓尔,虽欲从之,末由也巳。”我们读罢上下文,又看了这些注解,问题就非常清楚了。
 很明显,看通篇文章的主旨,不外乎强调要好学不倦,去追求真理。这是做学问的根本态度。这个《学行篇》所以被列为《法言》的第一篇,是很有意义的。因为这部书的作者扬雄是我国汉代的著名学者之一。这位生长于四川成都的作家,不但擅长词赋文章,可以同司马相如媲美;而且博学深思,写成了《法言》、《太玄》等阐明哲理的著作。他写《太玄》是为了比拟《易经》的;写《法言》则是为了比拟《论语》的。扬雄在《法言》的卷首写道:“撰以为十三卷,象论语,号曰法言。”我们现在看作者的语气,也不难知道,作者是多么努力以儒家的所谓圣人――孔子,和他的语录――《论语》为榜样的了。
 扬雄自命生平的学问和主张,都是以儒家的孔子学说为根据的,尽管他实际上还掺杂了老子和庄子等的思想成分在内。我们按照上面引述的文字来分析,可以很清楚地看出:扬雄是以颜回学习孔子的态度,作为一切学者的模范。虽然,他也说到孔子学习周公等其他例子,但是,最突出的还是说颜回学习孔子的这个例子。他的意思也就是说,学者要以理想的圣人,如周公、孔子这样的人,作为自己努力学习的榜样。
 他在文章中反复说明,颜回以他自己能够学习孔子为最大的快乐。他认为,颜回的这种快乐,是内在精神世界的真正快乐,是任何外在豪华的物质享受的快乐所不能比的。颜回如果不能学得象孔子那样,即便得了天下,也不会感到什么快乐;而使颜回最感到苦恼的,就是孔子太卓越、太高尚了,简直学不来。因此说,颜苦孔之卓也。如果把语气更加强调一下,那末,他的意思也可以说,孔子是高尚至极了,卓越至极了,无论如何学不到,所以说,颜苦孔之卓之至也。然而,又应该看到,这种惟恐学不到的苦恼心情,实际上也正是学习的人的乐趣之所在。
 大家知道,孔子曾经称赞颜回,说:“一箪食,一瓢饮,居陋巷,人不堪其忧,回也不改其乐。贤哉回也。”这个颜回出身于贫穷的人家,但是他天资聪颖,贫而好学,是孔子最好的门生。扬雄在他的著作中多次提到颜回,这不是没有道理的。历来的儒者都以颜回和孔子的故事,作为教育后人的材料,作为考试论文的题目。特别是明代洪武三年开始实行科举,此后的八股文章的题目,就离不开所谓圣人之言了。然而,明代的八股文题目比清代出题的范围还要宽阔得多,所以前次《夜话》中提到的那位督学徐文贞,居然把应试的秀才引用《扬子法言》的文句,批评为杜撰,这就成为笑话了。
 我们现在对于扬雄的《法言》等著作,当然可以也应该加以研究,对于他所推崇的颜回学习孔子的经验,如果能够有批判地拿来运用,变成正确的对于真理的追求和学习,那就很有益处了。

木下 国夫・藤井義則 校正

燕山夜話 第2集25話(通算55話)“颜苦孔之卓”