第2集燕山夜話-24 「多 学 少 評」

燕山夜話

知る者は言わず

 多学少評(知る者は言わず、言う者は知らず)、この言葉は、学ぼうとする者がとるべき心構えであり、これを習ってほしい。実状を知らず関係する知識もなければ、まず虚心な態度で事に臨み、真面目に学び、決して早合点をし、軽率に口を滑らしてはならない。さもないと、失敗をしでかし、笑いものになり、大きな損失を蒙るのだ。これは、歴代学者が我々に残してくれた遺産で、学問を治め、事業を始める上で貴重な経験である。これを無視すれば、誰であろうときっと大きな痛手を受けることになる。 実際に自ら本を書くとか、何かを企画することは簡単ではない。懐手をして傍観する人は、あれこれ批評に、たいして手間はかからない。昔の人は一冊の本を書きあげるため、全身全霊を注ぎ込んでも満足しなかった。ところが、批判好きな面々は、好き勝手に作品をこきおろして、作者をがっかりさせる。明代に劉元郷が『賢奕編』の中で挙げた一例は、この問にたいする回答のヒントになるだろう。
 その書によると、“劉壮輿は常に欧陽公五代史の訛誤(あやまり)を摘(あば)き、糾謬(きゅうみゅう)を為し、以て東坡に示す。東坡曰く、「往歳に欧陽公 此の書を著し初めて成る。王荆(けい)公 余に謂いて曰く。『欧陽公五代史を修し、而して三国志を修せず。非なり。子盍(なん)ぞ之を為さざる! 』余固辞して敢て当らず。夫れ史を為すは、数十百年の事を網絡し、以て一書成る。其の間に豈能く小得失すること無からんや? 余敢えて荆公の托に当たらざる所以の者は、正に公の如く徒に其后を掇拾(てつしつ)されんことを畏るるなり。” この故事は明代の陳継儒の『読書鏡』の中にも、同じように記されている。しかも陳継儒は感慨深げに述べている。“余之を師に聞きて云う、『未だ尽(ごとごと)く天下の書を読まず、敢て軽く古人を議せず。』然れども余谓う、『 真に能く天下の書を読み尽くせば、益ます古人を軽く議するべからずを知る。』”

王安石

 欧陽脩の『新五代史』は、薛居正の『旧五代史』に比べると、頁数はその半分程度であるが、独創的な内容が多い。これは誰も認めるところだろう。ところが、この書を批判するひとが大変多いが、また作者を心服させる批判が少ないのも珍しい。これは何故か。まさか浅薄な学問が、論評好きの原因で、それで的外れの評論が多いということではないだろうな。
 己を知り彼も知り、全てを知るという、学問に自信たっぷりの御仁は、批判相手の立場などもともと眼中にない。そのような人は、この世に自分の知らないことはないと思っているから、相手が進歩することなど全く思い至らないのである。そのために、批判の言葉で何か一つ躓けば大失敗を招くのだ。例えば、宋代の陸游の『老学庵筆記』の中で、王安石の対人批判は、相手方を軽視することにより、用語で失敗を犯した明らかな例を挙げている。
 陸游はこのように述べている。“荆公素より沈文通を軽んじ、以って寡学と為す。故に之に诗を贈り曰く: 『翛然として一榻 書に枕して卧し、直に日斜に到り馬に騎して帰る。』文通の墓志を作るに及び、遂に云う、 『公雖(おもう)に書を読まず』、或(あるひと)之を规(いさ)めて曰く、『渠(かれ)乃ち状元なり、この語過ち無きを得ん?』 乃ち読書を改め視書と作(な)す。」又嘗て鄭毅夫の夢仙詩を見て曰く、 『我に授るに碧簡書をもってす、奇篆丹砂に蟠る。 之を讀むも識(し)るべからず、身を翻して紫霞に凌(の)れり。』大笑して曰く、『此の人字を識らず、自承するに勘えず。』毅夫曰く:『 然らず! 吾乃ち太白の詩語を用いしなり。』”この文よりお分かりの通り、王安石は李太白の詩句とは知らず、軽率に他人を批評して、笑いものになった。人の評価は棺桶の蓋を閉じるまで決まらないが、彼は人を見下げたので、その前に評価を下した、ほんとに怪しからん奴だ!

陸游

 王安石は宋代革新派の大政治家であった。胸に一杯の革新思想を抱いていたが、実務知識と事業経営の経験に欠けていた。宋代の張耒は『明道雑志』で次のように述べている。「王荆公相と為り、大いに天下の水利を講ず。時に太湖を干す願(おも)い有るに至り、云わく良田数万頃を得るべし。人皆之を笑う。荆公因(ちなみ)に客と话(はなし)之に及び、時に劉贡父学士坐に在り、遽に対(こたえ)て曰く、『此れ為すこと易し。』荆公曰く、『何ぞや?』貢父曰く、『 但し旁辺に一太湖を開き水を納むれば則ち成るなり。』公大笑す。 ”王安石が政権にあった頃に、似た笑話が沢山のこっている。これは、王安石の思考が総じて非現実的であったことを、物語っている。特に、彼の態度には謙虚さが欠けていた。これが彼の大きな欠点と云えよう。
 古人の経験から多くの道理を学ことができる。その一つが、何でも多く学び、批判を控え目にして、謙虚な態度を失ってはならないことだ。ここで言う、多く、少なくは相対的であるから、絶対化しないで欲しい。我々は、如何なる時でもマルクス・レーニン主義理論を多く学び、大衆から、実践の過程に於いて謙虚に学ばなければならない。しかし錯誤や反動的問題には決然と挑まなければならない。この問題は今回の範囲を越えているので、別に取り上げよう。
 しかし、我々が理解できない事情に直面すれば、真面目に自己の無知を認めなければならない。自己の誤りを発見したなら、自己の誤りを公表することを恐れてはならない。明代の陳継儒の『見聞録』が一つの故事を紹介して、こう述べている。“徐文真浙中を督学す,有る秀才结题内に苦孔之卓语を用い,徐公批して云く、『杜撰なり。』後に散卷の時、秀才は前にゆき対へて曰く、『 此の句、揚子雲法言上に出ず。』 公即ち堂上に於いて応声して云く、「本より道(もう)すべし、不幸にして科第早く、未だ曾て書を得て読まざりきと。」遂に秀才に揖(拱手の礼)して云う、「承教了(ご教授ありがとう)」。衆の情大いに服す。”果たして『揚子法言』の第一篇を開けると、『学行篇』が現れるが、最後まで読み進むと、“顔 孔の卓に苦しむ也”の一句に行きつく。この試験官がその場で過ちを認め、自己の面子を失わなかったのみならず、全ての受験生を納得させた。これは後輩へのよいお手本ではないか。

【語句解釈】
・授我碧简书,奇篆蟠丹砂。读之不可识,翻身凌紫霞――仙人が俺様に碧玉を砕いた粉で書いた竹簡を授けてくれた、古朴な篆書で書いてあり、丹砂にとぐろが巻いている様に見えた。竹簡の字を読んだが意味が解からずもたもたしていると、仙人はしびれを切らし、ぱっと紫霞に乗って飛び去り、夢がさめた。

奇篆蟠丹砂 →丹砂にとぐろが巻いている

訳・北 基行

【 掲載当時の時代考証と秘められたメッセージ 】

 多 学 少 評 ひとそえ

 「多学少評」この4文字の題名が文章の全体を示し、(知る者は言わず、言う者は知らず)という絶妙の日本語訳が骨格を形付けている。
 「ひとそえ」は蛇足だと自覚していますと断った上で、贅語ばかりの埋め草をすることをお赦し願います。
 袖手旁观,评长论短,总是不大费劲的:懐手して傍観する人は、あれこれ評語を並べるばかりで論に乏しいとしている。行動より口舌を得意とする人を戒めているのだろう。
王安石是宋代革新派的大政治家。他有许多革新的思想,但是缺少实际知识和办事的经验:王安石も残念な例えとして形無しであるが、鄧拓が同時代の誰のことを皮肉っているのか、言わずもがなだろう。
虚心地向群众学习:これは解釈と実行のどちらも難しいと考える。虚心と謙虚を比べてみると、謙虚は自らへりくだる姿勢の言葉であり、虚心は心をむなしくして受け入れ、無心に通じる精神的な状態を表す言葉だろう。虚心に群衆に学ぶことは容易では無いだろう。
「少学多評」の老生は、文末に「だろう」ばかりを配して、蛇足を引っ込めさせていただきます。

文・井上邦久

 多 学 少 評 原文

 多学少评,这是值得提倡的正确的求知态度。我们对于任何事物,如果不了解它们的情况,缺乏具体知识,首先要抱虚心的态度,认真学习,切不可冒冒失失,评长论短,以致发生错误,闹出笑话,或者造成损失。这也是我国历代学者留给我们的一条重要的治学和办事的经验。谁要是无视这条宝贵的经验,就一定会吃大亏。
 一般说来,实际动手写一部书、做一件事等等,是相当不易的;而袖手旁观,评长论短,总是不大费劲的。比如,古人写一部书吧,往往尽一生的精力,还不能完全满意。却有一班喜欢挑剔的人,动辄加以讥评,使作者十分寒心。明代刘元卿的《贤奕编》中曾经举过一个例子,最足以说明这个问题了。
 据说:“刘壮舆常摘欧阳公五代史之讹误,为纠缪,以示东坡。东坡曰:往岁欧阳公著此书初成,王荆公谓余曰:欧阳公修五代史,而不修三国志,非也;子盍为之!余固辞不敢当。夫为史者,网罗数十百年之事,以成一书,其间岂能无小得失?余所以不敢当荆公之托者,正畏如公之徒掇拾其后耳。”这个故事在明代陈继儒的《读书镜》中,有同样的记载。陈继儒并且感慨很深地说:“余闻之师云:未读尽天下书,不敢轻议古人。然余谓:真能读尽天下书,益知古人不可轻议。”
 事实上,欧阳修的《新五代史》比薛居正的《旧五代史》,篇幅少了一半还不止,而内容却有许多独到之处。这是不可抹杀的。然而,历来挑剔是非的人多得很,而且有许多不能使被挑剔者心服,这是为什么呢?这难道不是因为有许多人学问不深而性好挑剔,评长论短而不中肯要的缘故妈?
 尽管有的人自以为知己知彼,很有把握,对于自己的学问觉得满不错,对于被批评的人从来看不在眼里。但是,他可能还没有想到,自己毕竟不是无所不知的,而对方也不会是老不进步的。因此,他在批评中稍一冒失就发生了错误。比如,宋代陆游的《老学庵笔记》中,提到王安石对人的批评,常常因为轻视对方,出语冒失,就是明显的例子。
 陆游写道:“荆公素轻沈文通,以为寡学,故赠之诗曰:翛然一榻枕书卧,直到日斜骑马归。及作文通墓志,遂云:公虽不尝读书。或规之曰:渠乃状元,此语得无过乎?乃改读书作视书。又尝见郑毅夫梦仙诗曰:授我碧简书,奇篆蟠丹砂;读之不可识,翻身凌紫霞。大笑曰:此人不识字,不勘自承。毅夫曰:不然!吾乃用太白诗语也。”可见王安石自己并不熟识李太白的诗句,轻率地批评别人,就不免闹笑话。他看不起别人,竟至随便给别人乱作盖棺定论,真真岂有此理!
 王安石是宋代革新派的大政治家。他有许多革新的思想,但是缺少实际知识和办事的经验。宋代张耒的《明道杂志》说:“王荆公为相,大讲天下水利。时至有愿干太湖,云可得良田数万顷。人皆笑之。荆公因与客话及之,时刘贡父学士在坐,遽对曰:此易为也。荆公曰:何也?贡父曰:但旁别开一太湖纳水则成矣。公大笑。”在王安石当政时期,类似这样的笑话还有不少。这些无非证明,王安石有许多想法是不切实际的。特别是他很不虚心,这一点可以说是他的大毛病。
 我们从古人的经验中,必须懂得一个道理,这就是:对一切事物,要多学习,少批评,保持虚心的态度。当然,这里所谓多和少,只是从相对意义上说,不应该把它绝对化起来。但是,对于我们说来,任何时候都应该更多地学习马列主义理论,并且虚心地向群众学习,在实践中学习。至于对错误的以及反动的东西必须进行坚决的斗争,那已经超出我们所说的问题的范围,又当别论了。
 但是,我们如果遇到不懂的事情,总要老老实实承认自己无知;发现自己有错误,就不要怕公开承认自己的错误。明代陈继儒的《见闻录》说过一个故事:“徐文贞督学浙中,有秀才结题内用颜苦孔之卓语,徐公批云:杜撰。后散卷时,秀才前对曰:此句出扬子云法言上。公即于堂上应声云:本道不幸科第早,未曾读得书。遂揖秀才云:承教了。众情大服。”果然,打开《扬子法言》的第一篇,即《学行篇》,读到末了,就有“颜苦孔之卓也”的一句。这位督学当场认错,并没有丢了自己的面子,反而使众情大服,这不是后人很好的榜样吗?

木下 国夫・藤井義則 校正

燕山夜話 第2集24話(通算54話)多 学 少 評