第2集9話 遅まき白菜を蒔く季節

燕山夜話

歴史上の偉大な愛国詩人―宋代の陸放翁に、『菘』という題の一首がある。その詩は次のとおりである。

 “雨寒声を送り満背蓬たり、如今真に是 荷鋤の翁。憐れむべし事に遇して常に遅鈍たるを、九月区区として晩菘を種ゆ。”[雨風が背中に吹き付け蓬の花まみれじゃ、ついに鍬を担ぐ田舎爺になってしまった。憐れんで下さい、ぐずはなにをやっても事がはかどらん。植えそびれて、九月になって急ぎ黙黙と晩菘を植えることですわい。]

 この一首は、陸放翁が晩年も田畑にでて体を動かしていたことを物語るもので、この精神には頭が下がるが、しかもこの詩は、いまの季節でも野菜の種を蒔くことが出来ることを教えてくれている。今が、ちょうど陰暦の9月初旬で、陸放翁が晩菘を植えたのはこの時期である。北方の気候は南方より少し寒いけれど、霜の降る時節までにまだ二十日あまりあり、急いで菘を植えれば、発芽した苗は大きく育ち、霜枯れの心配はない。

 ところで、陸放翁の植えた晩菘とは何でしょうか。それは、ほかでもない北京人がいう大白菜のことである。

 今北京では、大白菜が店頭に山のように並ぶ。北京人は大白菜が大好きだ。だけど大白菜の原名まで知る人はいないだろう。新しく出版された『蔬菜栽培学』等の新刊本も、単に“北京白菜”、“中国白菜”の名称をつかい、十字花科の一種の蔬菜に属すると紹介するのみである。この紹介では完全とはいえない。

明代の李自珍が『本草綱目』中でする紹介は、はぼ完璧である。それによると、“菘は即ち今人白菜と呼び為す者にして、二種あり。一種は茎円厚にして微に青し。一種は茎扁薄にして、而して白し。其の葉みな淡青白色なり。燕、趙、遼陽、揚州の植ゆる所の者は、最も肥大にして厚く、一本重さ十余斤の者あり。南方の菘は、畦内に冬を越す。北方の者、多く窑内に入る。燕京の圃人、又馬糞を以て窑に入れ壅培し、風日に見(ア)たあらざれば、苗葉長出し、皆嫩黄色をなし、脆美にして無滓なり。”[菘とは、現在、白菜とよばれる野菜で、二種類ある。一種は、丸型で分厚く薄青色である。もう一種は、扁平型をして、白色で、葉は淡青白色である。燕、趙、遼陽、揚州で植えられる白菜は、大きく育ち丸くボリュウーム感があり、一個の重さが五キロにもなる。南方の菘は、畑に植わったままで冬を過ごす。北方の菘は、取り入れて、窑という穴倉に入れる。北京の農夫は、窑に馬糞を入れ保温する。白菜は風や太陽にあたらないと、成長して、薄黄色の柔らかい葉っぱが長く伸びる。歯ごたえはサクサクとして、水分少なく美味この上ない。]

 明代のもう一人の学者王圻は、『三才図会』の中で次のように述べている。“菘菜即ち白菜は、南北皆これ有り。蕪菁と相ひ類すれど、但し梗短にして、葉濶厚にして肥、味甘温にして、毒なし。主に腸胃を通利し、胸中の煩燥を除き、並びに酒渇を解く。”[菘菜即ち白菜は、中国の南、北どちらでも採れる。蕪菁(カブラ)と同類であるが、茎が短く。葉は分厚く幅が広い。甘みがあり優しい味で、毒はない。胃腸によく便秘に効く。胸の渇きを取り、飲酒後の渇きを解く。]

歴来白菜について述べる詩文はまだまだあり、みな白菜を賛美している。例えば蘇東坡の詩は、大白菜の善いところを褒めたたえて次のように云った。“白菘は羔豚に類し、土を冒して熊蹯を出す。”[白菜は羊豚と同類で、土から熊の掌が出てきたようなものだ。] 大白菜があまりにも美味かったので、彼はそれをラムや豚、熊の掌に譬えた。氾成大の詩集のなかに『田園雑興』という絶句二首があり、その一首に云う、

 “桑下の春蔬 緑は畦を満たし、菘心青嫩にして芥苔肥ゆ。渓頭に洗択し店頭に売る、日暮 塩に裹み酒を沽ひて帰る。”

[桑畑の下の春野菜は、青青と畦が盛り上がっている。菘の心は青くて柔らかく、芥苔はよく肥えている。渓谷のそばで、白菜を洗って売っている。日暮れにそれを買い、塩をまぶし、酒を買って帰る。(帰えるころ白菜に塩がなじみ、これで一杯やりきれん。)] 

 もう一首はこのように云う。

“雪撥(ハ)ね挑(カカ)げ来たる塌地の菘、味は蜜藕の如く更に肥濃なり。朱門肉食の風味無し、只尋常に菜と作し把供す。”

[雪を掻き分け、穴から掘り起こした白菜は、味は蜜づけレンコンのように濃厚だ。これに比べたら、朱門の成金が食う肉は、あじ無しに等しい。白菜はいつでも一品料理となって提供できるのだ。] 

 大白菜にたいするこれらの讃歌は、どれも過分でないとおもうが、皆さん、ひとつ古人の説が正しいか試してはいかがか。

 大白菜を菘と呼ぶのはなぜか。これにはまた一つの理屈があるので面白い。宋代の大学者陸佃の『埤雅』にあるのが、“菘の性は凌冬も彫せず、四時長(ツネ)に見る、松の操あり。故にその字会意にして、而して本草は交耐霜雪を為すを以て也。”[菘には大寒にあっても枯れない性格がある。春夏秋冬つねにあり、松に操あるのに似る。] これより、大白菜の性質が松に似ているので、松に草冠をくわえて命名したことがわかる。こう説明すると、この白菜の値打ちがもう一段上がったような気になる。大白菜のこの種の性格をさらに誇張して描写する書物もある。例えば明代の陶宗儀の『輟耕録』は、元代末年に江南農民が一揆を起こした頃、揚州の大白菜が教えてくれた驚くべき頑強な生命力について、述べている。それによると、“揚州正に丙申、丁酉の間に至り、兵燹(セン)の余、城中屋址に遍く白菜生ず。大なる者は重さ十五斤、小なる者も亦八,九斤を下らず。膂力有る人負う所才(ヤッ)と四、五窠のみ、亦異なる哉!”[丙申、丁酉の中間の時期に。揚州にまだ兵火の余燼が消えないころ、城の建屋の跡地に白菜が生えた。大きいのは一株15斤(7.5キロ)、小さいのでも8、9斤はくだらない。腕力ある人で、やっと4、5個が持てる重さだ。あれだけ大きい白菜が出来るのは不思議なことだ。] 当時揚州の大白菜は、生産量も最高であったようだが、この頃は、野菜栽培の経験などに気をくばる人が居らず、残念ながらその記録が残されていない。

 現在、大白菜作りについては、北京郊区の農民が最も経験が豊富だろう。大白菜一株十五斤の記録があるかどうか、聞いていないが、あるかもしれない。陰暦九月の今、遅まきの白菜をひと畑植えることが出来るか迷っているひともいるだろうが、放翁が九月に晩菘を植えると云っているから、まず心配はいらないだろう。陸放翁の詩句はそれなりの根拠がある。今だ、現在が陰暦の九月初旬の天気で、北方でもまだ霜が降らないから、植えることが出来ないはずがなかろう。間に合うこと間違いなし、今もなお晩菘を植える季節なのだ。

 園芸愛好者の皆さん、私と一緒に、小さな実験場を立ち上げませんか。それぞれが自分の家の前に、大白菜の種子を蒔き、霜が降る以前に白菜の発芽が間に合うよう頑張りましょう。この白菜が特大に成長しなくとも、相当量収穫できる可能性がある。このようにして経験を積めば、その利用価値がどんどん増えていくのだ。

掲載当時の時代考証と秘められたメッセージ

「遅まき白菜を蒔く季節」ひとそえ

 前回は生姜でしたが、今回は白菜です。陸放翁(陸游)の「菘」から説き起こし、東坡肉(トンポーロ)を考案したとされる蘇東坡の詩を引用し、「羊豚、熊の手」に譬えられるほど美味である白菜を賞賛しています。氾成大の「絶句」にある白菜に塩をまぶし、和んできたところで、肴にして一杯というのは、左党にはこたえられませんね。
 白菜はビタミンC、ミネラルなどを含み、野菜の少ない冬にはなくてはならない食材です。塩をまぶして乳酸醗酵させた酸菜は、鍋やスープ、餃子の餡など中国家庭料理には欠かせません。また、揚州の大白菜を例に、どんな場所でも大きな収穫が見込めることを述べています。
 「私と一緒に、小さな実験場を立ち上げませんか」と鄧拓は呼びかけていますが、その真意は何だったのでしょう。当時、「大躍進」の破綻で農業は壊滅的な打撃を受け、大量の餓死者がでました。これに対し、1960年11月に周恩来の指示により、食糧不足解決に向けて大躍進からの転換が動き始めました。農民が自由に耕作できる自留地や副業が認められました。さらに都市の人口を減らして農村に移住させ、都市での食糧消費を減らし、合わせて農業人口を確保する動きが出てきました。そして1962年1月から2月にかけて北京で「七千人大会」と言われる会議が開かれ、大躍進の誤りを最終的に総括したのです。
 「自分の家の前に、大白菜の種子を蒔き」は、自留地を連想させます。人民公社に代表される集団化の弊害を除き、個人の生産意欲を高める市場主義の先駆けだったと思います。毛沢東が巻き返しを画策し、農業自由化への動きを許さない風潮が強かった時に、改革への援護を紙面で展開したのではないでしょうか。
 ついでにもう一つ触れておきたいのが陸游です。北の金を追い払い、宋の国土を回復することを主張し続け、そのために反対派から睨まれ、左遷されて郷里で農業に携わっていたことから、農家や農民を題材にした詩も多いです。その陸游の作品をこよなく愛し、死ぬ間際まで翻訳を続けたのが、「貧乏物語」で知られるマルクス学者、河上肇です。河上の著作は早くから中国語に翻訳され、毛沢東、周恩来ら中国共産党指導者に影響を与えたと言われます。不思議な縁です。 文・斎藤 治

种晚菘的季節 原文

我们祖国历史上伟大的爱国诗人―宋代的陆放翁,写过一首小诗,题目是《菘》。原诗写道:
 “雨送寒声满背蓬,如今真是荷锄翁。可怜遇事常迟钝,九月区区种晚菘。”
 这一首诗不但说明了陆放翁晚年还参加田园中的体力劳动,精神可佩;而且说明了我们目下的季节仍然可以种菜,因为现时正值阴历九月初旬,恰是陆放翁种晚菘的时令啊!虽然北方的气候要比南方冷一些, 但是,现在距离下霜的时节还有二十多天,抓紧种菘,长出的苗子壮大起来,就不怕霜冻了。
 可是,先要弄清楚,陆放翁种的晚菘,究竟是什么?原来所谓菘,就是北京人说的大白菜。
 现在的北京,大白菜已经大量上市了。人们都爱吃大白菜,可是谁也不知道大白菜的原名是什么,就连新出版的《蔬菜裁培学》等书籍,也只记载了“北京白菜”、“中国白菜”等名称,说它们是属于十字花科的一种蔬菜。这当然是很不完全的说法。
 明代的李时珍在《本草纲目》中所做的介绍,却是比较完全的。他说:“菘即今人呼为白菜者,有二种:一种茎圆厚,微青;一种茎扁薄,而白。其叶皆淡青白色。燕、赵、辽阳、扬州所种者,最肥大而厚,一本有重十余斤者。南方之菘,畦内过冬;北方者多入窖内。燕京圃人,又以马粪入窖壅培,不见风日,长出苗叶,皆嫩黄色,脆美无滓。”
 另一个明代的学者王圻,在《三才图会》中也说:“菘菜即白菜,南北皆有之,与芜菁相类,但梗短,叶阔厚而肥,味甘温,无毒,主通利肠胃,除胸中烦燥,并解酒渴。”
 历来讲述白菜的诗文还有许多,都一致赞美它。例如苏东坡的诗,曾经夸奖大白菜的好处说:“白菘类羔豚,冒土出熊蹯。”他把大白菜比做羔豚、熊蹯,因为它实在太好吃了。范成大的诗集中有《田园杂兴》两首绝句,其一写道:“桑下春蔬绿满畦,菘心青嫩芥苔肥。溪头洗择店头卖,日暮裹盐沽酒归。”又一首写道:“拨雪挑来塌地菘,味如蜜藕更肥浓,朱门肉食无风味,只作寻常菜把供。”这些对于大白菜的歌颂,应该承认都并不过分,我们现在每个人都可以替古人做见证。
 为什么把大白菜叫做菘呢?这里头还有一个道理。据宋代大学者陆佃的《埤雅》载:“菘性凌冬不彫,四时长见,有松之操,故其字会意,而本草以为交耐霜雪也。”可见大白菜的性格,原来与松树竟有相似之处,所以它的名字就用松字加个草头。这样一说,我们就觉得它更加可贵了。有的书上还把大白菜的这种性格描写得很突出。比如明代陶宗仪的《辍耕录》中,有一段文字叙述元代末年,江南农民起义时期,扬州的大白菜就表现了特别顽强的生命力。他说:“扬州至正丙申、丁酉间,兵燹之余,城中屋址遍生白菜。大者重十五斤,小者亦不下八、九斤。有膂力人所负才四、五窠耳,亦异哉!”看来当时扬州的大白菜,大概产量也最高,可惜没有人注意把那个时候的种菜经验,好好地记载下来。

 北京郊区的农民种植大白菜的经验,现在要算是最丰富的了。不过,有没有一棵大白菜重十五斤的高产记录,我们还不知道,可能不会没有。至于是不是能在阴历九月再种一茬晚白菜,这恐怕就未必了。我想陆放翁的诗句一定有根据。他既然说九月种晚菘,那末,现在阴历九月初的天气,即便在北方也还没有下霜,难道就不能种吗?显然应该肯定,现在还是种晚菘的季节。
 我希望能够联合几位园艺的爱好者,同我一起来做个小小的试验:在自己门前的地边,现在再撒下大白菜的种子,争取在下霜以前再长出一茬白菜。虽然这一批白菜不能长得很大,但是,也很可能还有相当的收获。这样取得一些经验,将会有更多的用处。

木下 国夫・藤井義則 校正
燕山夜話 第2集9話(通算39話) 种晚菘的季节