第2集8話 生姜栽培に損なし 

燕山夜話

 新設備の試運転が軌道に乗りはじめ、赤字段階から脱した頃の情況を、日常“将夠本”[やっとトントンだ]で表現する。この言葉の語源が気になり、何人かに尋ねたことがあるが、誰もが“剛夠本”といって、“剛”の字を“將”の字音に読んだ。後に農業生産に詳しい人がいて、これは“姜夠本”だと教えてくれた。家に帰って調べてみると、果たして彼の云う通りで、そのいわれもあった。元来この言葉は世間で長年言いふるされた成語であるが、背景に、農業の知識と経験がでてきたのは予想外であった。
 元代の農学者王禎は、『農桑通訣』の中で次のように書いている。“四月、竹箄(タケカゴ)を以て根土を爬開(カキ ヒラ)き、姜母を取り之を貨す、元本虧かず。”[四月に竹かごで土を掻き分け、生姜の親を取り出し、これを売り出すと元本が保証される]またこう云う、“俗諺に云ふ、羊を養ひ姜を種う、子は利に相当す。”
[諺に云う、羊を飼い生姜を植えると。それから増える子が利益である。] 
これまでは次の一行 、“姜母を取り之を貨す、元本を虧かず”、を読み流し、ここにひそむ商いの原理を見逃してきた。しかし生産のベテランが見れば、この文字の意味する処は、ノウハウの塊である。
 ベテラン農夫が作る生姜は、一畝の砂地で3000斤収穫できるという。種生姜はひとかけの老生姜で、これが増えて一株二、三斤の新生姜となる。天候不順で、農作物が全滅し、生姜畠に何も生えていなくとも、植えつけた種生姜は食用にもなり、商品として売ることもでき、元本をまる損することはない。これを“姜夠本”という。則ち王禎が云う“根土を爬き開き、姜の母を取り之を貨す、子は利に相当す”[根元の土を掻き分け、生姜の親を取り出して売る、子が利益となる。]とは、このことを意味する。この点まで、明記する農学書は外にない。明代の大植物学者李時珍の『本草綱目』が最も有名であるが、その中では次のように述べるにすぎない。“姜は原湿沙地に宜し。四月母姜を取り之を種う、五月苗生じ、初生は嫩芦の如し。而して葉稍やく濶く、竹葉に似て、対生す。葉また辛香あり。秋社前後、新芽頓に長じ、列指状の如し。采食すれば筋無し。之を子姜と謂ふ。秋分後の者は、之に次ぐ。霜の後は則ち老ゆ。”[生姜は元来多湿砂地を好む。四月に親生姜を植えると、五月に芽がでる。芽は柔らかく葦に似るが、葉はやや広く、竹葉に似て対生である。葉にも辛い匂いがある。秋の祭り前後になると、新芽は特に長くなり、手指の様である。採って食べると、筋がなく柔らかい。これを子生姜という。秋分以後も収穫できる。霜が降りる頃になるとひね生姜となる。]

 正直に云うと、李時珍の著述する所は多くの箇所で、先輩、王禎の解釈を一歩も出ていない。王禎の『農桑通訣』における記載内容は、農業生産の実務経験から来ている。彼が云う姜の植え方は、たいへん重要で、ぜひここでその続きを紹介したい。王禎は云う、
 “秋社前、新芽頓に長び、分けて之を采すれば、即ち紫姜なり。芽色は微紫、故に名づく。最も糟食に宜し、亦蔬に代ふも可なり。劉屏山詩に云はく、恰も匀しく粧指に似て、柔尖にして浅紅を帯ぶ。之に似たり。白露の後、則ち絲を帯び、漸く老ひ、老姜と為る。味極めて辛く、以て烹飪に和る可し。蓋し老愈せば辣愈す者也。曝干すれば則ち干姜と為し、医師之に資り、今北方之を用ふこと頗だ広し。

 [秋祭りの前、新芽が急に伸長する。これを採ると、紫生姜である。この名は生姜の芽が紫色を為すのでこう名付ける。粕漬けにすると美味い。野菜の代用にもなる。劉屏山は詩でこの様に詠う:ちょうど女子の手指の形をしている、柔らかく淡い紅色を帯びる。この通りだ。白露の後、細い糸が出て、老いて、ひね生姜となる。辛味が増し、料理に使い、ひねればひねる程辛くなる。日干すれば乾燥生姜となり、医師が使う、北方では用途が広い。]

 九月中に掘出し、屋中に置き、宜しく窰を作り、穀稈を合わせ之を埋む。今南方は地 暖なれば窰を用ひず。小雪前に至れば、霜経らざるを以て上と為す。抜去の日、就ち土を晒過し、篛籠を用いて盛貯し、架け起こし、下に火を用ひて燻すこと、三日夜、湿気をして出尽くしめ、却って篰口を掩じて、仍ほ高く架け起こし、下に火を用いて燻し、常暖にさせ、凍損せしめること勿れ。春至れば、其の芽の深き者を択び、前法の如く之を植うれば、効速にして利益倍を為す。”
 [九月中に姜を掘り起こし、部屋の中に取り入れ、室(むろ)をつくり、もみ殻をまぜこみ埋める。南方は温暖であるからむろを作らなくてもよい。この作業は、小雪(二十四節気の一、11月22日)、霜が下りる前に、姜を抜き土の上で日光にあて、それからがま籠に盛り、宙にぶら下げて、三日三晩下から日で燻した後、暖かい場所で保管し、凍らせないよう注意する。春になれば、芽の深いのを択び、前に述べた方法で植え付けると、効果よく倍の利益がある。]
 この一連の文章はベテラン農夫から直接取材したもので、独創的である。『斉民要術』、『爾雅翼』、『四時類要』等、王禎以前の書を調べても、このような農作業に及ぶ記事は見当たらない。王禎は、李時珍以前に大きな成果を上げた農学者であることは確かである。彼が江西永豊の県知事であった頃、しばしば老農と交わり農耕養蚕園芸を研究した。その生産の経験を取りまとめ、本にして農業知識を広めた。ここで彼がいう姜の植えつけは、単にその小さな一例にすぎない。彼は中国農業科学の発展に、重要な貢献をした。

 王禎等古代農学家がまとめた経験と、現在の老農の経験を合わせて、生姜栽培に適した北方土壌と気候を利用して、生姜の栽培を多いに広げるべきである。生姜は健康増進に有益である。有益であるが、使用量は控えめにしよう。度をすごすと、却って有害であることは、言うまでもない。生姜を適量使用すれば、多くの疾病を治療することが出来る。王安石の『字説』は云う、“姜よく百邪を疆御す、故に之を姜と謂ふ。”[疆と姜がjiāngの同音である]  蘇軾の『東坡雑記』は銭塘浄慈寺の和尚を描写して、年齢は八十歳ぐらい、顔色は子供のようだと、次の様に述べる、“自から生姜を服すること四十年、故に老せずと言ふ”[生姜を四十年食べ続けているから、老化しない]、と。これは生姜が人体の健康にいいことを証明している。『本草綱目』が挙げる、生姜の薬効ある病症は、数十種類ある。だから、李時珍は、姜は“蔬にすべく、和にすべく、果にすべく、薬にすべく、其の利博し”[生姜は蔬菜としてもよし、薬味として混ぜてもよく、果物としもよく、薬としてもよく、多方面に有益である]、という。

 その実、早くも春秋時代に、孔子は生姜を食べると身体に有益であることを知っていたから、孔子は日常に“姜食を撤(さ)げず”[食事に生姜がでると完食した]とした。漢代に至り、或る人が大量に生姜を植えて、終に財をなし富豪になった。司馬遷が『史記』『貨殖列伝』の中で、“千畦姜韭、その人千戸と等し”[千畦田地に生姜と韮を植えれば、それより得る利益は、千戸の村を賜った公爵と同等である。(畦は50畝)]、と書いている。時代は下り、今日では知識経験が遥かに豊富であるから、生姜栽培の用途を更に研究開発し、単に元本を割らない程度で生姜の価値に満足してはならい。

掲載当時の時代考証と秘められたメッセージ

「生姜栽培に損なし」 ひとそえ

 生姜栽培で頭に浮かんだのは、台湾の原住民プユマ族の作家、パタイ(巴代)の書いた小説「薑路」(邦訳「ジンジャーロード」)だった。山奥の耕地は少なく、家からも離れた場所で生姜栽培を行う原住民のことを描いた作品だ。遠いところでも栽培に行くのは、生姜が確実に現金収入に結びついており、貧しい山に住む人たちにとっては欠かせないと存在だからだ。

 鄧拓は生姜栽培の有利な点を列挙して、栽培を奨励しているのは、この点からも理解できる。肥沃な耕地に恵まれなくても、多湿の砂地を好む生姜は、農民にとっては救世主的作物なのだろう。史記「貨殖列伝」に生姜長者に触れており、自然条件に左右されず、生だけでなく乾燥しても有効で、食用だけでなく、薬にもなるなど万能の作物だ。「蔬にすべく、和にすべく、果にすべく、薬にすべく、其の利博し」と李時珍が述べている通りだ。

 鄧拓が生姜礼賛の背景に何があるのだろう。現実的な農業重視の視点から先覚者である元代の農学者王禎への評価につながっており、行き過ぎた工業化と農業の実態を無視して多くの餓死者を出した毛沢東の「大躍進政策」への批判が出ているように思える。          文・斎藤 治

姜 够 本 原文

 平常谈话中,说到生产上完成一宗新的试验,而没有吃亏,总是说“将够本”。我曾向几位同志请教这句话的来历,都以为是“刚够本”,把“刚”字读为“将”字的音。后来有一位熟悉农业生产情况的同志,告诉我说,这是“姜够本”。回来一查,果然他说的有根据。原来这句话不但是长期流传的成语,而且是一条重要的农业知识和经验的总结。
 元代的农学家王祯,在《农桑通诀》中就曾写道:“四月,竹箪爬开根土,取姜母货之,不亏元本。”又说:“俗谚云,养羊种姜,子利相当。”过去对于“取姜母货之,不亏元本”这一行文字,马马虎虎看了,并没有发现这里边有什么大道理。而在实际生产知识丰富的人看来,这些文字记载却概括了非常可贵的经验。
 据说许多有经验的老农种生姜,一亩沙土地可得三千斤。每一棵姜最初只用一小片老姜做种,长出的新姜就有两三斤。即便遇到天时不利,田里别的农作物棵粒不收,而种姜的田地上如果也不长什么,你只要挖出原来种下去的老姜,它却一点也不会损坏,照样能吃的、能卖的,决不至于把老本丢光了。这就叫做“姜够本”,也就是王祯说的“爬开根土,取姜母货之,不亏元本”的意思。这一点在其他许多农书上都没有写清楚。比如最著名的明代大植物学家李时珍在《本草纲目》中也只是说:“姜宜原湿沙地。四月取母姜种之,五月生苗,如初生嫩芦;而叶稍阔,似竹叶,对生。叶亦辛香。秋社前后,新芽顿长,如列指状,采食无筋,谓之子姜。秋分后者,次之。霜后则老矣。”
 说一句公平的话,李时珍的著作在不少地方,并没有超出他的前人王祯的解释。王祯的《农桑通诀》有许多记载更切合于农业生产的实际经验,他说的种姜方法,我看很重要,应该加以介绍。他写道:
 “秋社前,新芽顿长,分采之,即紫姜。芽色微紫,故名。最宜糟食,亦可代蔬。刘屏山诗云:恰似匀妆指,柔尖带浅红。似之矣。白露后,则带丝,渐老,为老姜。味极辛,可以和烹饪,盖愈老而愈辣者也。曝干则为干姜,医师资之,今北方用之颇广。九月中掘出,置屋中,宜作窖,谷秆合埋之。今南方地暖不用窖。至小雪前,以不经霜为上。拔去日,就土晒过,用篛篰盛贮,架起,下用火熏,三日夜,令湿气出尽,却掩篰口,仍高架起,下用火薰,令常暖,勿令冻损。至春,择其芽之深者,如前法种之,为效速而利益倍。”
 这一段记载显然是直接从老农的长期经验中得来的,具有首创的意义。在王祯以前,我们翻阅《齐民要术》、《尔雅翼》、《四时类要》等书的记载,都没有说到这些要领。由此可见王祯的确是在李时珍以前很有成就的一位农学家。当他做江西永丰知县的时候,经常和老农在一起,研究农桑园艺,总结生产经验,著书推广农业知识。他对中国农业科学的发展,无疑地是有重要贡献的。这里所说的种姜,只不过是一个小小的例证罢了。
 我们应该把王祯等古代农学家总结了的经验,和现在老农的经验结合起来,利用北方土壤和气候适宜于种姜的条件,多多推广种姜。因为姜对于人的健康大有益处。当然,用量要控制,如果过量了,反而有害,这是不待说的。只要用量适当,那末,姜就可以治疗许多种疾病。王安石的《字说》称:“姜能疆御百邪,故谓之姜。”苏轼的《东坡杂记》描写钱塘净慈寺的和尚,年纪八十多岁,颜色如童子,“自言服生姜四十年,故不老云”。 这就证明了生姜对人体健康的好处。《本草纲目》中列举生姜能治疗的病症,总有几十种。所以,李时珍说姜是“可蔬、可和、可果、可药,其利博矣”。
 其实,早在春秋时代,孔子就知道吃生姜对身体有益,所以孔子生平“不撤姜食”。到了汉代,有人由于大量种姜,终于发财致富,因此,司马迁在《史记》《贷殖列传》中写道:“千畦姜韭,其人与千户侯等。”时至今日,人们的经验更多了,应该更清楚地知道种姜的好处,进一步加以推广,决不仅仅因为它够本而已。

木下 国夫・藤井義則 校正

燕山夜話 第2集8話(通算38話) 姜 够 本