第2集6話 “弾棋”を知っていますか

燕山夜話

 北京西山に碧雲寺という寺があり、そこの裏庭に、棋盤が彫られた大きな石があるそうだ。それは弾棋盤と呼ばれるもので、通常の将棋盤でもなく、囲碁盤でもない。この弾棋盤は750年前の金の章宗が使ったという、いい伝えがある。
 弾棋盤はどんな格好のものか、それを確かめに碧雲寺へ行ったが見当たらなかった。園林管理人に聞いても要領をえなかった。しかし明代の劉侗、于奕正の『帝京景物略』中にはちゃんと記載されており、でたらめではなさそうだ。探せば出てくるかも知れない。
 弾棋というゲームについて、晋代徐広の『弾棋経』は次の様に述べている。
“弾棋、二人対局す。黒白各六枚。先ず棋を相当に列べ、下上に呼(は)き之を撃つ。”{弾棋とは、二人で対局するものである。黒、白各六駒を持ち、盤上に並べ、対局者の下が、上に呼びかけ対局が始まる。}この遊戯は相当永い歴史がありそうだが、それが何時ごろ始まったかは、古書の記述が一致しない。宋代劉義慶の『世説新語』は、“弾棋は魏室より起き、妝奩の戯なり”[弾棋は魏の皇室がその起源であり、子女が戯れとするものである]と認めるが、この記載はあまりあてにならない。唐代の段成式は、『西陽雑俎』の中で、“喜ぶ所ただ弾棋のみ”の一節を、曹丕『典論』の中から、引いてきて、弾棋は “魏室に起こらず”を証明している。宋代の沈括は『夢渓筆談』の中で、『西京雑記』にもとづき別の判断を下している。この『西京雑記』は漢代劉歆の著作と伝えられるが、晋代の葛洪の著作と云う人もある。それは別にして、沈括が考証により、弾棋の起源は漢代にあることを確認している。彼は以下のように書く。
 “漢の元帝蹴踘を好めども、蹴踘を以て労と為し、相類にして労とせざる者を求め、遂に弾棋の戯を為す。”[漢の元帝は蹴踘で遊ぶことを好んだが、それをすると疲れすぎるので、他に似た競技は外にないか求め、遂に弾棋の遊びが宜しいとした。]    しかし、沈括は漢元帝と云い、『弾棋経』『序』は漢の武帝の事と云う。以下の通り。
 “昔漢の武帝西域を平らげ、胡人の善く蹴踘する者を得て、尽く其の便捷跳躍に炫され、帝好み而して之を為す。群臣諫すること能わず。侍臣東方朔因って此の芸を以て之に進む。帝乃ち蹴踘を舎て、而して弾棋を習ふ。”[漢の武帝が西域を平定したとき、蹴鞠に長けた西域の胡人者を連れ帰り、その蹴鞠の上手さに魅了され、帝自身がこれにのめり込んだ。御側の者が、ほどほどにと止めたが、聞き入れなかった。侍臣の東方朔がこの弾棋を進めた。帝は蹴鞠を止め、弾棋を習うようになった。]
 文意は、球蹴りは激しい運動であるから、ちょっと年を召した方やすこし体の弱い人に不適であり、それで弾棋を球蹴りに代えた、これはそれなりに合理的である。現在古代弾棋の詳しい方法がわからないが、この遊戯を復活させる手があるように思う。なんとか復活させたいものだ。
 弾棋にたいする古人の賞賛は各種多くある。漢代の蔡邕、曹丕の両者は『弾棋賦』を書き、梁の簡文帝は『弾棋論』を書いたし、唐代の柳宗元は『弾棋序』を書いた。弾棋の詩歌に至っては更に多い。唐代杜甫の詩中に、“席謙、近く弾棋を見ず”の句がある。当時蘇州に名を席謙と呼ぶ一人の道士がおり、弾棋が最もうまかった。杜甫の詩句は即ち彼を懐かしんで書いたものである。王維の詩にも“城東遊侠児を逐はず、隱囊紗帽 彈棋に坐す”などの句がある。李商隠の詩もこのように書いている。“玉作の弾棋局、中心亦平ならず。” もともと弾棋盤の中央が隆起しているので、李商隠はこのような句をつくった。白居易にもこのような句がある。“弾棋は局上の事なれども、最妙は是長斜。”ここでいう「長斜」は弾棋の一手である。宋代の蘇東坡にもまだ“牙籤玉局 彈棋に坐す”などの句がある。これらの句は、弾棋は大変興趣に富んだ遊戯であったことを証明している。

 弾棋の特徴は何か。沈括の『夢渓筆談』が述べるところに拠ると、棋その特徴は、“其の局方二尺、中心高きこと盆を覆すが如く、其の嶺は小壺をなし、四角は微に隆起す。”沈括はさらに白居易の詩句でひとつの解釈をしている。“長斜を抹角斜弾と謂ひ、ひとたび発すれば半局を過ぐ。”[長斜の一手を抹角斜弾と呼ぶ。この手で、局の勝負は、半分決まったようなものだ。] 陸放翁の『老学庵筆記』も次のように述べている。“呂進伯作る考古図に云ふ、古弾棋局 状は香炉の如く、蓋し謂う、其の中隆起するなり。……然れども其の芸の伝わざるを恨む也。”[呂進伯が作った考古図は次のように述べる。古弾棋盤は、香炉の形をしている。なぜそう言うかと云えば、盤の中央が隆起しているからである‥‥‥

けれども、残念ながら、そのルールが伝わらない。]確かに、弾棋というこの一芸は、失伝して久しい。清代の蒲松齢の『聊斎志異』も弾棋をさす女道士の故事を書いているが、それも弾棋のルールを紹介していない。古書が弾棋ルール数句を記載するが、その云うところはまちまちで、後人の理解を更に困難にしている。例えば、柳宗元は『弾棋序』の中で、“棋を置くに二十有四有り。貴者半ば、賤者半ば。貴を上と曰い、賤を下と云う。咸第一より十二に至る。下者の二は乃ち敵の一、朱墨を以て別く。”[碁盤に置く石は合計24個あり、貴者がその半分、賤者が半分持つ。貴者を上と云い、賤者を下と云う。みな一から十二までを置く。下の第二手は即ち敵の第一手であり、朱と墨で塗分けた]これは徐広の『弾棋経』の書くところと異なる。徐広はただ黒白おのおの六枚と云い、柳宗元のいうのは赤黒かく十二枚で、倍多い。一体誰の云うことが正しいか。あるいはこの両方とも正しく、棋子に多い少ないがあっても、打ちかたは同一かも知れない。が、誰もこれを断定することはできない。
 どこかにプロ(精通した)で熱心な方いないでしょうか、弾棋のルール一式を紹介していただければ幸いです。西山碧雲寺の後ろの弾棋盤が見つかり、それを見本に木や陶土で複製して、それが多くの高齢者や虚弱者のための、文化娯楽の道具の一つになれば云うことはない。同時に、このようにすれば我が国古代の豊富な棋類運動の方法が保存され、新時代において古代弾棋技術に新しい光をあてることが可能なのである。
 皆さん、弾棋のこと知っていますか。もしもご存じの方がいらっしゃれば、どうかお出ましいただき読者への奉仕教師をお願いしたい。

掲載当時の時代考証と秘められたメッセージ

「你知道彈棋嗎」 ひとそえ

 世界三大棋類とは、西洋のチェス、中国将棋の象棋、そして囲碁と言われています。チェスと象棋はいずれもインドのゲームをルーツとしていますが、囲碁は中国がルーツです。その歴史は4000年と言われているほど古いものです。一説には伝説上の帝堯が発案して、息子の教育に用いたという言い伝えがあるほどです。もともとは、碁盤を宇宙、碁石を星に見立て、天文や占いに用いたようです。春秋戦国時代には人生や戦略などのシュミレーションゲームとして広まりました。
 論語の陽貨篇にも囲碁のことが登場しています。孔子は「たらふく食べて一日中何もしないでぼんやり過ごすなら、人として人たることは難しい。博(双六)や弈(囲碁)があるではないか。これでもしている方が何もしないよりはましだ」と述べています。
 今回、話題になっている弾棋は、文中でも説明しているように中央部が盛り上がった碁盤を用いて、対戦する双方が碁石を弾いてゲームをしたようです。ルールははっきりしていませんが、お弾きの一種というところでしょうか。相手の石を弾けば、それを自分のものにでき、外れれば反対に取られ、石がなくなった方が負けという解説もあります。漢の皇帝が蹴鞠に代わって弾棋を習い、熱中したことから、よっぽど面白いゲームだったのでしょう。
 日本にも中国から伝わったのは間違いないでしょう。正倉院宝物の「木画螺鈿双六局」が弾棋盤ではないかという説があります。また、「徒然草」第百七十一段には「碁盤の隅に、石を置いて、対角線上の石に当てようとはじく時に、対象の石を見ていては当たらない。自分の手元をよく見て、碁盤の目の黒点を見つめながら対角線上をまっすぐに弾くと必ず当たる」と説明していますが、これは本来の囲碁ではなく弾棋ではないかという説があります。    文・斎藤 治

你知道“弹棋”吗? 原文

 北京西山碧云寺后头,据说有一块大石,上面刻了一个棋盘。它不是我们平常看到的象棋盘,也不是围棋盘,而是弹棋盘。相传这个弹棋盘是距今七百五十年前金章宗用过的。
 这个弹棋盘到底是什么样子呢?可惜我到碧云寺没有看见它,向园林管理人员打听也不得要领。但是在明代刘侗、于奕正的《帝京景物略》中却有记载,可见这不是毫无根据的传闻,我们很有可能把它寻找出来。
 弹棋是什么呢?晋代徐广的《弹棋经》说:“弹棋,二人对局。黑白各六枚。先列棋相当,下呼上击之。”看起来,这种游戏已经有了很久的历史。但是,它究竟起于何时,古书上记载又不一致。宋代刘义庆的《世说新语》认为:“弹棋起自魏室,妆奁戏也。”其实,这个说法并不可靠。唐代段成式的《酉阳杂俎》,引述曹丕《典论》中有“所喜唯弹棋”等语,证明弹棋“不起于魏室”。宋代沈括的《梦溪笔谈》,则根据《西京杂记》做了另一个判断。这部《西京杂记》相传是汉代刘歆的著作,又有人说是晋代葛洪的著作。不管怎样,沈括经过了考证之后,确认了弹棋是起源于汉代。他写道:
 “汉元帝好蹴踘,以蹴踘为劳,求相类而不劳者,遂为弹棋之戏。”
 不过,沈括说的是汉元帝,而《弹棋经》《序》却说成是汉武帝的事情。它写道:
 “昔汉武帝平西域,得胡人善蹴踘者,尽炫其便捷跳跃,帝好而为之,群臣不能谏。侍臣东方朔因以此艺进之。帝乃舍蹴踘而习弹棋焉。”
 看来大概因为踢球是激烈的运动,对于年纪较大或身体较弱的人并不适宜,因此,用弹棋代替踢球是比较合理的。我们现在虽然不明白古代弹棋的详细方法,似乎也还应该想法子恢复这种游戏,不要使它断绝才好。
 古人对弹棋赞扬备至。汉代的蔡邕、曹丕,都写过《弹棋赋》,梁简文帝写过《弹棋论》,唐代柳宗元写过《弹棋序》。至于有关弹棋的诗歌就更多了。唐代杜甫的诗中,有“席谦不见近弹棋”之句。当时苏州有一个道士,名叫席谦,最善于弹棋,杜甫的诗句就是因为想念他而写的。王维的诗也有“不逐城东游侠儿,隐囊纱帽坐弹棋”等句子。李商隐的诗也写道:“玉作弹棋局,中心亦不平。”原来弹棋盘是中间隆起的,所以李商隐才有这样的句子。白居易也有这样的诗句:“弹棋局上事,最妙是长斜。”这里说的长斜是弹棋的一种方法。宋代的苏东坡还有“牙签玉局坐弹棋”等的诗句。这些都可以证明,弹棋是很有趣的一种游戏。
 弹棋的特点是什么呢?据沈括的《梦溪笔谈》所述,它的特点是:“其局方二尺,中心高如复盂,其巅为小壶,四角微隆起。”沈括还把白居易的诗句做了一番解释,他说:“长斜谓抹角斜弹,一发过半局。”陆放翁的《老学庵笔记》也说:“吕进伯作考古图云:古弹棋局状如香炉,盖谓其中隆起也。……然恨其艺之不传也。”的确,弹棋的这一套技艺,久已夫传。清代蒲松龄的《聊斋志异》虽然也写到有会下弹棋的女道士的故事,但是仍然没有介绍下弹棋的方法。古籍记载几句弹棋的规矩,说法又不一样,后人更难掌握。例如,柳宗元在《弹棋序》中说:“置棋二十有四。贵者半,贱者半。贵曰上,贱曰下。咸自第一至十二。下者二乃敌一,用朱墨以别焉。”这和徐广的《弹棋经》写的就不同。徐广只说黑白各六枚,而柳宗元说的是红黑各十二枚,多了一倍。到底谁说的对呢?也有可能这两种说法都对,棋子可多可少,打法也许都相同。然而,这又有谁能够断定呢?
 我很希望有内行的热心人,能够把弹棋的一套方法介绍出来,最好能够把西山碧云寺后面石头上的弹棋盘也找到,照样用木头或陶土仿制,以便年纪大的和体弱的人们,多得到一种文化娱乐的工具。同时,这样做还可以保存我国古代丰富的棋类运动的一种形式,使古人弹棋的技艺在我们这个新的时代发出新的光辉。
 朋友,你知道弹棋吗?如果你知道,就请你来做读者们的义务教师吧!

木下 国夫・藤井義則 校正
燕山夜話 第2集6話(通算36話) 你知道“弹棋”吗?