第2集第5話 呉漢は妻を殺していない

燕山夜話

 昔の舞台で、誰もが一度は見た芝居に、『呉漢殺妻』またの名を『斬経堂』というのがある。この芝居は、封建社会の忠孝観念を高揚させようとした、でっち上げだと、早くからいわれてきたからか、近来はそれを再上演する人がいなくなった。歴史的真実と舞台技術の真実の間には、時には予想外の大きな距離があるもので、ひどいのは、戯曲作家がある目的をもって、歴史の真相を歪曲して、まったく事実とことなる事件を捏造することも、ここから容易に理解することが出来る。因って、過去において、芝居見物を通して歴史を読もうとした人は、誰もみなまんまと騙されてきたのである。 

『呉漢殺妻』または『斬経堂』の筋書きは、おおざっぱに云うと次のようなものである。漢朝潼關の総兵、呉漢が、王莽の娘を妻に娶った。王莽が王位を簒奪すると、漢宗室の劉秀逮捕の令が下った。呉漢が関所を守っていた時に劉秀を拿捕し、己の功を報告しようとした矢先に、呉漢の母が、王莽はお前の仇人だ、お前の父は王莽により殺害された。その時お前はまだ小さかったので、何事かわからなったが、今は父の仇討をするべきだとさとした。さらに、王莽の娘を殺し、劉秀を助け漢室の山河を回復せよと命令した。妻がちょうど経堂で念仏を唱えていた。呉漢は剣を取って妻を殺そうとするが、妻を殺すに忍がたく、妻に実状を打ち明けると、妻、王莽の娘は自ら首を切って命を絶った。呉漢を決心させるため、呉漢の母も自ら首を吊り死んだ。このように、呉漢は遂に劉秀に随いしゃにむに天下を取りに打出て、後にいわゆる中興の名将の一人となった。

 ところがこの筋書きは、根本的に歴史事実に合致しない。漢代の史書のなかでは、いわゆる“呉漢殺妻”なる事実根拠はまったく探し出せない。後世のシナリヲ作家が、どうしてありもしない“殺妻”の筋書きをむりやりに呉漢の頭上に被せたのか理解できない。あの脚本家が、このようにして呉漢の身代を上げようとしたことは明らかであるが、我々現在の視点では、このために却って呉漢に無実の罪を着せ貶めることになるとは思わなかったであろう。

 呉漢は北京地区の歴史上の著名人物である。北京人は、呉漢の故事を詳しく知るべきである。『後漢書』『呉漢伝』の記載によると、“呉漢 字は子顔、南陽宛の人なり。家貧しく、県に給事して亭長となる。王莽の末、賓客法を犯すを以て、乃ち亡命し漁陽に至る。資用乏しく、販馬を以て自業とす。燕薊の間を往来し、至る所皆豪傑と交結す。”[呉漢、字は子顔、南陽宛の人であった。家は貧しかった。県に奉職して村長となった。前漢の末、王莽が政権を簒奪した末期頃、呉漢の賓客が法を犯したので、漁陽に逃げた。逃亡資金が乏しかったので、馬売を職業として、燕薊、今の北京・天津の境界あたりを往来し、土地の豪傑と付き合った。]

この一段の記載を見れば、呉漢は王莽の親任する手下の将官ではなく、単なる一つの小さな亭長にすぎなかったことが分かる。曾て彼は賓客が法を犯したので逃走したことがあるが、王莽の娘婿になっていないし、いわんや王莽の娘を殺していない。彼と王莽の関係は父親殺しの仇どうしでなく、劉秀との関係も旧劇が描写するあの様なものではないことは言うまでもない。呉漢の起兵は劉秀に呼応したもので、最後には光武中興の功臣になったが、それも彼が母の命に違わなかったからでない。これらは“呉漢殺妻”の筋書きが根拠のないことを証明している。

 しかしながら、これらの証明はまだ十分でなく、“妻殺し”の説を翻すには足りず、正面から更に有力な証明材料を探し出さないかぎり、人心を納得させることが出来ない。我々はもう一歩調査を進める必要がある。呉漢の家庭と夫婦関係は結局のところどうであったか。上記『後漢書』『呉漢伝』の一節、呉漢の家庭環に係る境叙述がある。それによると、“漢は嘗て出征し、妻子は後に在って田業を買う。漢還へり、之を(せめ)て曰く、軍師外に在り、吏士足らず、何すれぞ多く田宅を買ふや。遂に尽く以て昆弟外家に分与せり。”[漢が嘗て出征した時、妻子は家を守り、田地を買い入れた。漢が戦から戻り、妻に田地を買ったことを責めていった。軍師、外地へ出兵し、内地では官吏、士卒など人手が不足している。この困難な時期に乗じて、多くの田や宅地を買ってはならない。そこで買った田地をことごとく部下や知り合いに分け与えた。]これより見て取れるのは、呉漢の家庭関係はいたって正常で、“妻殺し”のような事件があった痕跡は見あたらない。

 若しも『後漢書』の記載で足らなければ、漢代劉珍の『東観記』中の一節の文章を挙げて証明することができる。劉珍は、後漢安帝の永初年間の史官で、詔を奉じ東観諸書を校定し、建武以降の名臣列伝の編集責任者であった。彼の著述は信用できる。彼によると、 “漢は但し里宅を修して第を起こさず。夫人先に死し、薄葬小墳、祠堂を作らず也。”

[漢は、家を作ったが、大きな邸宅を構えなかった。妻が先に亡くなったが、大きな葬儀を出さず、こぶりの墓に埋葬し、祠堂という墓に詣でるまえの控えの建屋も造らず、すべて質素なものであった。] このように見てくると、呉漢夫人に対する処遇も至って正常であって、呉漢“妻殺し”の類の怪事件を起こす可能性がない。

 しかも、『後漢書』記載に照らすと、呉漢の“人なりは質厚にして文すくなく、造次に辞を以て自達せざる”[呉漢は、朴訥かつ質実であった。とっさに意思を表明できない訥弁であった]とある。これはまた、呉漢を『斬経堂』の人物として描写した歴史記述がないことを証明している。もし呉漢がほんとに王莽の娘を殺して劉秀に投じたのであれば、『後漢書』上に必ず大書特書して、彼の忠孝を褒めたたえてしかるべきであるが、一字一句もそれに触れていないのである。

 我々の現在の観点から云うと、若し呉漢の故事で芝居を編むならば、『後漢書』記載史実にもとづき、原本そのままを舞台化する必要はないけれども、筋書きを捏造して、『呉漢殺妻』の如き脚本をみだりに編み出すべきでない。

【語句注釈】

・许多人都曾看过一出戏――”一出戏”、一こまの芝居。‘出’は‘齣’の略字。次行の‘出’は‘戏’と離れている。“这是一出用……的坏戏”。

・汉但修里宅,不起第――漢の建てた住居は、地位による規定の基準(庭、建造物の面積)に従わない質素なものであった。漢代、官吏住居は地位により第甲、第乙等の等級があった。‘里’、‘宅’ともに住居の意。

「呉漢は妻を殺していない」 ひとそえ

 「呉漢殺妻」を題材に、演劇における歴史的事実と創作、事実の捏造について鄧拓は執拗に語っています。最後に「筋書きを捏造して、『呉漢殺妻』の如き脚本をみだりに編み出すべきではない」と締め括っている点からも、うかがえます。

この背景には1960年から1961年にかけて新聞、演劇雑誌などで繰り広げられた歴史劇論争が、影響しているのではないでしょうか。当時、知識人を吊し上げた反右派闘争、毛沢東の呼びかけで行われ、数千万人の被害者を出した大躍進政策を経て、演劇や芸術活動は政治から距離を置く風潮が強かったようです。現実とは離れた歴史を題材にした演劇の中では、比較的創作もしやすかったことから、歴史劇が盛んに作られ、演じられたました。

その中で後世大きな波紋を呼ぶことになったのが、明史研究者で北京市副市長だった呉晗の『海瑞罷官』です。内容は明代の正義ある官僚、海瑞が赴任した土地で、民衆を苦しめる悪徳地方官僚を罰し、冤罪を取り消し、民衆から没収した土地を返したために、悪徳官僚の陰謀で罷免されたという史実をもとにして作られた歴史劇です。

 呉晗は歴史劇について「必ず歴史上の根拠がなければならない」「歴史の真実にかなり合致させるよう努めなければならず、歪曲、捏造は許されない」と語っています。どうでしょう。鄧拓の主張と似ていませんか。呉晗と鄧拓はもう一人と、同じペンネームで「三家村札記」というコラムを執筆していました。呉晗と鄧拓は同じ問題意識を持っていたのではないでしょうか。

 『海瑞罷官』は上演から4年後、姚文元の「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」が上海の文匯報に掲載され、文化大革命へ向かって中国は動き始めました。冤罪の取り消しは、反革命分子の冤罪取り消しを、没収土地の返却は集団化された人民公社の解体を狙うものと難癖をつけて呉晗を批判しました。これは毛沢東の意を受け、呉晗の上司で北京市長だった彭真、さらに国家主席の劉少奇追い落としのために仕掛けられたのです。

 その後、「三家村札記」、「燕山夜話」も批判され、呉晗、鄧拓とも悲惨な最後を迎えることになるのです。 文・斎藤  治

吴汉何尝杀妻 原文

在旧戏舞台上,许多人都曾看过一出戏,名叫《吴汉杀妻》,又叫《斩经堂》。这是一出用牵强附会的方法,借以宣扬封建社会的忠孝节义观念的坏戏,似乎早有定论,所以近来已经没有人再演它了。但是,我们从这里却不难懂得:历史的真实和舞台艺术的真实,有时竟然距离很大,甚至于有的剧作者为了一定的目的,完全捏造事实,歪曲了历史的真相。因此,在过去,谁要是把看戏当成读历史,那就不免要上当。

《吴汉杀妻》或《斩经堂》一剧的情节,大体是说:汉朝潼关总兵吴汉,娶了王莽的女儿为妻。王莽篡位以后,下令捉拿汉宗室刘秀。吴汉守关时捉住了刘秀,正要送去报功,他的母亲告诉他说,王莽是他的仇人,他的父亲是被王莽杀害了的,那时他年纪太小,不懂事,现在应该为父报仇,并且命令他杀死王莽的女儿,扶助刘秀恢复汉室的江山。吴汉持剑去杀妻,正好其妻在经堂念佛。吴汉不忍杀她,就将实情告诉她。于是,王莽的女儿就自刎而死;吴汉的母亲为了促使吴汉下决心,也上吊自杀了。这样,吴汉果然死心塌地随刘秀去打天下,后来成为所谓中兴名将之一。

这个故事情节,根本不合历史事实。在汉代的历史典籍中,完全找不到所谓“吴汉杀妻”的事实根据。不知道后来的剧作者,为什么要无中生有地硬把“杀妻”的情节,安在吴汉的头上。那位剧作者显然以为这样可以抬高吴汉的身价,殊不知在我们现在看来,这样反而诬害了吴汉。

由于吴汉是北京地区历史上的著名人物,所以北京人对于吴汉的生平故事,应该知道得特别清楚。据《后汉书》《吴汉传》的记载:“吴汉字子颜,南阳宛人也。家贫,给事县为亭长。王莽末,以宾客犯法,乃亡命至渔阳。资用乏,以贩马自业。往来燕蓟间,所至皆交结豪杰。”看了这一段记载,就可以明白,吴汉并不是王莽手下亲信的将官,而只是一个小小的亭长。他曾因宾客犯法而亡命逃走,并没有当王莽的女婿,更没有杀王莽的女儿。他与王莽也并非有杀父之仇的冤家,与刘秀的关系更不同于旧戏所描写的那样。吴汉起兵响应刘秀,终于成为光武中兴的功臣,也不是因为他不违母命的结果。这些都证明“吴汉杀妻”的情节是无稽的。

然而。这些证明还不够有力,还不足以推翻“杀妻”之说,必定要从正面找出更有力的证明材料,才可以令人心服。因此,我们要进一步查究:吴汉的家庭和夫妇关系到底怎样?

上述《后汉书》《吴汉传》中,有一段关于吴汉家庭关系的重要叙述。它写道:“汉尝出征,妻子在后买田业。汉还,让之曰:军师在外,吏士不足,何多买田宅乎?遂尽以分与昆弟外家。”由此可见,吴汉的家庭关系很正常,看不出有过“杀妻”之类的变故。

如果对于《后汉书》的记载还认为不足的话,那末,我还可以举出汉代刘珍的《东观记》中的一段文字做证明。刘珍是后汉安帝永初年间的史官,曾奉诏校定东观诸书,并且负责编辑建武以后的名臣列传。他的著述自然是可靠的。据他说:“汉但修里宅,不起第。夫人先死,薄葬小坟,不作祠堂也。”这样看来,吴汉的夫人名位也很正常,并没有引起吴汉“杀妻”之类变故的可能。

而且,照《后汉书》所载,吴汉“为人质厚少文,造次不能以辞自达”。这又证明,从来历史记述都没有把吴汉描写成《斩经堂》的人物。如果吴汉确曾杀过王莽的女儿而后投奔刘秀,那末,在《后汉书》上一定要大书特书,夸奖他的忠孝,决不至于一字不提。

从我们现在的观点来说,假若要把吴汉的故事编成戏剧,虽然不必要完全照《后汉书》记载的史实,原封不动地搬上舞台;但是也不应该捏造情节,胡乱编出象《吴汉杀妻》这样的剧本。

木下 国夫・藤井義則 校正
燕山夜話 第2集5話(通算35話) 吴汉何尝杀妻