第2集第3話 慧深の国籍から説く

燕山夜話

 アメリカ大陸を発見したのは誰か、この議論で、読者の関心は、慧深の国籍にあつまった。つまるところ慧深はどこの国の人か? 始めに、ずばり申し上げると、彼は中国人である。根拠は何かと言えば、 『高僧伝』という書物、これが証明してくれた。この書の編纂は梁朝の和尚慧皎になるが、慧皎は慧深とほぼ同時代の人、彼の記録は信用できると思う。

 『高僧伝』によると、宋文帝の時代に法名を慧基という高僧がいた。この高僧には僧行、慧旭、道恢などの多くの有名な弟子があり、その中でつぎのように特記している。“沙門慧深は、また基の弟子なり。深は同学の法洪とともに、ならび戒を以て素より重んぜらる。” [沙門慧深は、基の弟子であった。深と同学の法洪は、戒律によって平素より同門の輩から重んじられた]当時、慧深は禅林の中にあって、すくなからぬ影響力があったことが読み取れる。

 ここでは慧深が何国人か記載されていないが、彼が外国人であると云ういかなる痕跡もみあたらない。『高僧伝』の中では、稀に外国人の和尚がでてくると、その来歴を記すから、一見してすぐわかる。例えば、慧基は西域の法師僧である伽跋摩、弘賛禅律などと往来があった。編集者は、このことを極めて明白に記録に残しているから、慧深が外国人であれば、明記しないことはあり得ない。それどころか、外国人和尚まで彼に師事して仏教を学んだと大書特筆して、慧基の仏教領域における威光と人望の高さを表わそうとしたに違いない。

 当時外国の和尚が中国にやってきても、法名をかえる理由がなく、僧伽跋摩等の如く、今まで通り彼の外国法名の訳音を用いたはずで、慧深の法名は明らかに彼が中国の和尚であることを物語っている。

 『梁書』の『東夷列伝』はきっぱりと次のように述べている。“扶桑国は、斉の永元元年、其国に沙門慧深あり、来り荊州に至り、説いて云わく、扶桑は大漢国の東二万里に在り”[扶桑国は、斉永元元年、其の国に沙門慧深なる人物が居り、やってきて荊州に至り、云うには、扶桑は大漢国の東二万里にあると]。 文中に“其国”とあるが、この二字をどう解釈するかだ。

 これは二通りの解釈ができる。一つは、“其の国”を扶桑とする。もう一つは、“其の国”を南斉とする。後者の解釈に従えば、慧深の国籍にまつわる疑問が解けるが、文法上からはいささか無理がのこる。前者の解釈でいくと、文法的には文章の前後と一層なじむが、慧深の国籍問題で引っかかる。どう解釈するか判断に苦慮するところであるが、それを解くカギは、古代文献の記載内容の研究を進めることにあった。

 慧基の伝記を調べていて、彼が“斉建武三年冬十一月城傍寺に於いて卒す、春秋八十有五”と書いてあるのを発見した。斉建武三年は496年で、これを遡ること85年は、411年の東晋安帝義煕七年である。彼は“年満二十年にして、蔡州に度し戒を受く”[年齢廿歳、蔡州にゆき、僧侶となる]ので、ある。この時は431年、即ち宋文帝元嘉八年である。後に、彼は“三呉を遍歴し、経教を講宣し、学徒至る者千有余人” [長江下流一帯を遍歴、経説を講義し、学徒千数人が集まった。]であった。これらは全て宋文帝在位時期、則ち452年以前のことである。慧深はこの時期に慧基の弟子になったことは確かである。これより以降斉の永元元年、即ち452年から499年の間、この四十数年間が、ちょうど慧深が米州を旅した時にあたる。彼が荊州に戻ると、劉宋の天下はすでに蕭斉の天下にうつっていた。この変遷さえ知らない慧深を、人々が扶桑より来たと人といっても、まっとうなこととして、疑う人はいなかったと思う。

 慧深が米州に赴いた目的は、仏教伝達であることは明らかである。彼は仏教徒としてあちらに渡ったのであり、あちらに往ってから仏教徒になったとはとても考えられない。裏返せば、彼の米州遊歴により、その大陸の人々がはじめて仏教と接触したのである。当然ながら、その時点でまだ沙門など存在しないから、彼らの沙門を中国に遊学させる為派遣することは更にあり得ない。もしも拝仏取経のために人を中国に派遣したのであれば、それは必ず記録が残っているはずである。慧深の資料の中で、このような形跡は見あたらない。

 資料が見つかるにつれいろいろなことが明らかになってきた。米州大陸は、五世紀頃に、中国人により発見されたこともわかってきた。1913年出版の『地学雑誌』

第三十七期上によると、“近来西方の学者が仮説を建て云うには、最初に米州大陸を尋ねあてたのは、実は我が中国人であった、と。その説は、米州のレッド・インデアンの言語形態が中国人のそれとよく似ていることを証拠に挙げ、……最近著名な考古学者であるナイが云うところでは、人類学者数人とともに、メキシコ国の越万滔地方に於いて、泥制の古像多数を発見した。その顔のつきは華人と変わらなかった。その衣飾もまた中国十数世紀頃の物と認められた。この他、また泥像数百体があり、丈は数尺で、その塑法は中国近代の木彫神像と極似する。まぎれもなく千余年前の中国の技術である。……この種の確固たる根拠があり、アメリカ大陸は、実は中国人が最も早く発見したのである。その発見時期は、今を去ること千五百年の久しきにのぼる。”

 上記の材料にもとづき、慧深は少なくとも、最初に米州大陸発見したと言われる人間のなかで、最もそれに近い人物であることは断言できるのである。

「慧深の国籍から説く」ひとそえ

国立台湾海洋大学 – 木造船

 筆者の鄧拓は、どうしてこれ程までにアメリカ大陸を最初に発見したのが中国人であることにこだわったのでしょうか。その謎を解くヒントがありました。それは、台湾の青年5人が中国の伝統的な造船方法で作った木造帆船で、1955年4月4日に台湾・基隆を出港し、サンフランシスコまで114日かけて太平洋横断に成功したことです。木造船は19世紀に福建省・福州で建造されたもので、台湾人青年らは大西洋横断レースに参加するため、船を買って太平洋を横断したのです。レースには間に合にあいませんでしたが、太平洋横断は歴史に残る快挙です。この船は紆余曲折があり、2012年にやっと台湾に戻され、現在、基隆の国立台湾海洋大学で一般公開されています。

 当然、鄧拓もこのニュースを知っていたでしょう。中国人が伝統的な中国の帆船で、アメリカ大陸に到着したことが、最も早くアメリカ大陸を発見したのが中国人であるとの文を書く動機になったのではないでしょうか。慧深の国籍へのこだわりも、中国人の快挙を意識したものではないでしょうか。

 中国の4大ポータルサイトである「捜狐」には、アメリカインディアンが周に滅ぼされた殷の末裔で、アメリカ大陸に渡ったことを台湾青年の太平洋横断が実証したという記事が載っています。そうなると3000年前に中国人がアメリカ大陸に渡ったことになります。燕山夜話でも言及しているメキシコの泥人形やインディアンの言語と中国との相似性は、あながち無視はできないかもしれません。歴史のロマンを感じることで良しとしましょう。                       文・斎藤治

由 慧 深 的 国 籍 说 起 原文

在谈论谁最早发现美洲大陆这个问题的时候,许多人都很关心慧深的国籍。

到底慧深是哪国人呢?对这个问题应该首先做出初步的回答:他是中国人。

根据何在?有《高僧传》可以作证。这部书是梁朝的和尚慧皎编撰的。他与慧深几乎是同时代的人,当然他的记载比较可信。

按《高僧传》的记载,在宋文帝时,有一位高僧,法名慧基。他有好几个有名的弟子,如僧行、慧旭、道恢等人,其中特别提到:“沙门慧深,亦基之弟子。深与同学法洪,并以戒素见重。”可见当时慧深在禅林中影响很不小。

这里虽然没有明白记载慧深是哪国人,但是似乎没有任何理由说他是外国人。因为

《高僧传》中凡遇外国的和尚,就都写明来历,一看便知。比如,慧基与西域法师僧伽跋摩、弘赞禅律等往来,编书的人在文字上都交代得明明白白。假若慧深是外国人,决不会不写清楚,相反的,倒还可能大书特书,以表明慧基在佛教领域的威望很高,连外国和尚也跟他学佛。

而且,当时外国的和尚即便到中国来,也没有改变法名的道理,照例应该用他的外国法名译音,如僧伽跋摩等等。慧深的法名显然表明他是中国的和尚。

但是,《梁书》《东夷列传》上分明写着:“扶桑国者,齐永元元年,其国有沙门慧深,来至荆州,说云:扶桑在大汉国东二万余里。”这中间的“其国”二字应该如何解释呢?

这可以有两种解释。一种是把“其国”解释为扶桑;一种是把“其国”解释为南齐。用后一种解释虽然可以打消关于慧深国籍的疑问,可是在文法上说来比较勉强。用前一种解释更符合上下文的文法,只是对慧深的国籍问题又难于说通。

那末,应该怎样解释才好呢?关键还要看我们如何研究古代的文献记载。

从慧基的传记中,我们发现他“以齐建武三年冬十一月卒于城傍寺,春秋八十有五”。齐建武三年是公元四九六年,上溯八十五年,为公元四一一年,则是东晋安帝义熙七年。他“年满二十年,度蔡州受戒”。这时候应该是公元四三一年,即宋文帝元嘉八年。后来他“遍历三吴,讲宣经教,学徒至者千有余人”。这都是宋文帝在位期间,即公元四五二年以前的事情。慧深无疑的也是在这个期间成为慧基的弟子。从此以后到齐永元元年,即从公元四五二年到四九九年间,这四十多年的光阴,可能正是慧深远游美洲之时。等他回到荆州,刘宋的天下已经变成萧齐的天下了。人们都说他来自扶桑,这是很自然的,并没有什么不可理解之处。

而且,慧深到美洲的目的,显然是去传播佛教,他是以佛教徒的身分去的,决不会到那里以后才变成佛教徒,这也是可以断定的。同时,在他游历美洲的时候,那个大陆上的人们才有机会接触佛教,还没有他们自己的沙门,更谈不上派遣他们的沙门到中国来游历。至于他们当时如果曾派人来中国拜佛取经,那也一定会有记载。在有关慧深的史料中,我们找不出这样的迹象。

现在越来越多的材料证明,美洲大陆确实是在公元五世纪的时候被中国人首先发现的。据一九一三年出版的《地学杂志》第三十七期上,也有一则资料写道:“近来西方学者创立一说,谓最初寻获美洲大陆者,实为我中国人。其说以美洲红印度人之语言形体皆与中国人相似为证。……最近则有著名考古家奈云,偕人种学家数人,在墨西哥国越万滔地方,寻获泥制古像甚多,面貌确与华人无异。其衣饰亦稔为中国十数世纪之物。此外,又有泥造佛像数百,长约数尺,其塑法与中国近代之木雕神像相似,盖亦千余年前千中国之技术也。……有此种种确据,乃可证明美洲大陆,实为中国人最先发现者。其发现之时期,距今约一千五百年之久。”

根据上面这些材料,我们可以断言,慧深至少是当时发现美洲大陆的最突出的人物之一。

木下 国夫・藤井義則 校正
燕山夜話 第2集3話(通算33話)慧深の国籍から説く