第2集第2話 “扶桑” 小考

燕山夜話

“どうして扶桑をメキシコと言い切れるのか? 扶桑は日本だと言ってきたが、それが間違いだったのか?” 『夜話』の読者から、この様な質問があった。ここに扶桑についていささか考証を試みたい。

まず扶桑は日本ではないと、これははっきりと申し上げることが出来る。中国古代の史書は、どの書も日本の正式呼称を“倭国”としている。『山海経』の『海内北経』には、早くも“倭國在帶方東大海內。”[倭国、帯方の東 大海内に在り。]と記している。“帯方”とは今日の朝鮮平壌の西南地区を指し、漢代の帯方郡がそれである。後の史書は、前回引用した『梁書』、『南史』などを含めてすべてが、日本を“倭国”と称し、“扶桑国”とは一線を画して混同されることがない。各史書の『東夷伝』では、“倭国”と“扶桑国”は別に傳が立てられているから、他の国であることが一層明らかである。

地理上から申しても、この二国家間の距離は離れすぎている。倭国の位置は“在帶方東大海内”[帯方の東 大海内に在り]とあり、扶桑国の位置は、“在大漢囯東二萬餘里”[大漢国の東二万余里に在り]とある。『南史』を見ると、大漢国は“在文身國東五千餘里”[文身国の東五千余里にあり]との位置にあり、文身国はまた“在倭國東北七千餘里”[倭国の東北七千余里にあり]とある。このように見てくると、中国から扶桑国までの距離は合計三万余里もあり、日本までの距離より遥かに遠くなる。

ここまで書いたところで、送られてきた多くの資料を同僚が届けてくれた。その資料に、1761年という早い時期に、金勒というフランス人らしい学者が、『梁書』の記述にもとづき、扶桑国は北アメリカのメキシコであると指摘している。しかも、新大陸を発見したのは中国人が最も早いと認めている。1872年に、名を威寧という別の学者が、金勒の主張に同意を示し、扶桑はメキシコであるとした。1901年にはカリホルニア大学教授である弗雷爾も論文を発表し、ほぼ同じような意見を主張した。しかし、当時は帝国主義国家の盛んな時期であったから、このような主張は日の目を見ずに、いつの間にか埋没してしまった。

これ等の資料を見てから、外国人も、『梁書』に記載されている扶桑国の物産や風俗は、古代メキシコのそれとよく似ていると発表しているのを知り、私の判断は間違っていない、これでいけると自信を深めた。それらの資料によると、扶桑の木というのは、古代のメキシコ人が“龍舌蘭”と呼んだ木で、どこにでも生えており、高さは三十六尺にもなる。メキシコ人は日常の飲食及び衣服の原料をこの植物に仰いでいたそうだ。また、メキシコの北部に、巨大な野牛が生息していて、その角は大変長かったという。これ等の諸事実は、『梁書』の記載と符合する。

古代メキシコにブドウは無く、後世に欧州人がアメリカ大陸に移住後、誰かが欧州より葡萄の種子を持ち込んだと言われている。しかし、威寧という人たちは、欧州人がアメリカ大陸にやってくる以前に、野生のブドウが既にあったことを証明している。それが即ち『梁書』が述べて居る蒲桃である。フランス人、ヴァン・ルーンが一九三二年に出版した『世界地理』という書物でも同じように、ヨーロッパ人が初めてアメリカ大陸にやって来た頃、アメリカ大陸を“WINELAND”と呼んだという。それは“葡萄州”という意味で、土地には一種の葡萄を産出し、葡萄の美酒を作っていたからである。

また、ある人は、アメリカ大陸に馬がいなく、後にスペイン人が馬を大陸に持ち込んだという。けれども、動物学者が発掘した動物の骨格より、アメリカ大陸には古代より馬類が生息していたことが証明された。ヨーロッパ人がアメリカ大陸に進出する千年前に、メキシコ一帯に馬がいたか否かはよく分かっていない。

メキシコより出土する多くの刻碑の中に、一部の人像は我国の南京明陵の大石像とよく似たのがある。刻碑のなかには大亀もあり、高さが八フィート、重さ二十トンに達し、多くの形象文字が刻まれているそうだ。考古学者の判定では、これはすべて中国古代文化の影響を受けているという。ソ連科学院の出版になる『アメリカ大陸インデアン人』なる書によれば、古代メキシコとのペルーに“金、銀、白金、銅及び銅と鉛合金――青銅を溶解精錬ができたが、どこにも練鉄の形跡は見つからない”とあり、この点は、『梁書』とも完全に一致する。

『梁書』にはまだ次のような記述がある。“其の國法に南北獄あり。若し犯の輕き者なら南獄に入れられ、重罪者は北獄に入れらる。赦あれば則ち南獄を赦し。北獄を赦さず。北獄にある者は,男女相い配され。男を生めば八歲にして奴と為り、女を生めば九歲にして婢と為る。犯罪之身は、死に至るまで出でず。貴人に罪有れば、國乃ち大會して、罪人を坑に坐らせ、之に對し宴飲す。分訣者は焉に死別し、灰を以て之に繞う。”

[その国の法に南北二つの監獄を構える。罪の軽い者は南獄に入れられ、重罪を犯した者は北獄に入れられる。恩赦があれば南獄が許される、北獄は赦されない。北獄の者には、男女それぞれ当てがわれ、男が生まれれば八歳で奴とし、女が生まれれば、九歳で婢とする。犯罪者は死ぬまで獄より出されない。高貴な者が罪を犯せば、国は大会を開き、罪びとを穴に坐らせ、これを取り巻いて酒宴を開く。縁者は此処で死別し、之のまわりを灰で埋める。]前回はこの段を省略したが、威寧の資料が、これがメキシコの風俗と一致するところと指摘しているので、ここに付け加えた。

最後に、当時の人間往来はどのルートをとったのかという、問題が残る。ルートについては房龍が述べるたように、“彼らは太平洋北部の狭い海峡を航行してきたか、ベーリング海峡の氷上を走破してきたのかも知れない。ひょっとすると大昔はアメリカ大陸と陸続きの時代があり、そのころにやって来たのかも知れない。この点にかんして我々は知る由がない。”彼はこのように三種類の仮説を立てたが、若しかすると、古代中国と扶桑国間の交通はこの三種類全てがあったかも知れない。

燕山夜話 第2集 2話「『扶桑』小考」ひとそえ

 3回にわたる話題の中心は「扶桑」です。そもそも「扶桑」とは何でしょうか。神話や地理を紹介し、戦国時代から秦・漢時代に編纂された中国最古の地理誌とも言える「山海経(せんがいきょう)」には、太陽の昇る神木と説明しています。古代の一里がどれだけなのか、はっきりしませんが、「高さは三百里」と書かれています。中国の1里は古代でも400メートル前後でしょうから、高さが120キロメートルにもなる巨樹です。太陽が昇ってくるのもうなずけます。しかし、「山海経」は妖怪や神様の類も多数登場しますので、真実であるとは考えにくいです。

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「扶桑」は中国の東海の海上にあるとされ、その扶桑樹のある場所から扶桑と名付けられたと言います。あくまでも神仙思想を反映した伝説的な存在でした。1972年に湖南省長沙で発掘された2200年前の馬王堆漢墓の副葬品の帛画(絹に彩色を施した絵)にも曲がった大木の扶桑が描かれています。

これが一つの国として史書に登場したのは、「梁書」の「扶桑國伝」からです。鄧拓は中国古代の史書は日本の正式呼称を「倭国」としており、扶桑國と日本は違うと見解を述べ、メキシコこそが「扶桑国」だと主張しています。しかし、読者の「扶桑は日本と言ってきたが、間違いだったのか」という疑問には、同感します。東海にあることから日本を「扶桑國」と呼んだのは、中国側でした。それを受けて、日本でも自国を「扶桑」と呼ぶようになり、平安時代には「扶桑」に因んだ歴史書や漢詩集が作られました。現在でも社名などに「扶桑」が多く使われています。鄧拓のこだわりの背景には何があったのでしょうか。文・斎藤 治

“扶 桑”小 考 原文

“为什么你把扶桑说成墨西哥?难道过去我们把扶桑当做日本真的是错了吗?”有人看了前次的《夜话》以后,向我提出这样的问题。现在我想把扶桑做一个小小的考证。

扶桑决不是日本,这是可以肯定的。几乎在中国古代所有的史籍中,对日本的正式称呼都是“倭国”。如《山海经》的《海内北经》早就写着:“倭国在带方东大海内。”当时所谓“带方”即今之朝鲜平壤西南地区,汉代为带方郡。后来的史籍,包括我前次引述的《梁书》、《南史》等都在内,也一概称日本为“倭国”,与“扶桑国”区别得非常清楚,不相混淆。在这些史书的《东夷列传》中,“倭国”和“扶桑国”都分开立传,显然是两个国家。

从地理位置上说,这两个国家的距离也很远。倭国的位置,只是“在带方东大海内”;而扶桑国的位置,则是“在大汉国东二万余里”。查《南史》载,大汉国是“在文身国东五千余里”;而文身国又是“在倭国东北七千余里”。这样算来,扶桑国距离中国共有三万多里,比日本远得多了。

写到这里,报社的同志给我送来了许多有关的材料。其中有一个材料说,早在一七六一年,有一个学者名叫金勒,大概是法国人,他已经根据《梁书》的记载,指出扶桑国是北美洲的墨西哥,并且认为发现新大陆的可能以中国人为最早。一八七二年又有一个学者名叫威宁,完全支持金勒的主张,认为扶桑必是墨西哥。一九○一年七月,加利福尼亚大学教授弗雷尔也发表论文,提出与威宁相同的主张。但是在帝国主义国家,这种意见当然不能流传,而逐渐被淹没了。

看了这些材料之后,我更加相信这个判断是可以站住脚的。因为那些外国人也证明《梁书》记载的扶桑国物产和风俗,大体上与古代的墨西哥很相似。

据说,所谓扶桑木,就是古代墨西哥人所谓“龙舌兰”。它到处生长,高达三十六尺。墨西哥人日常饮食和衣料等,无不仰给于这种植物。在墨西哥北部地区,古代有巨大的野牛,角很长。这同样符合于《梁书》的记载。

至于有人说,古代墨西哥没有葡萄,只是后来欧洲人到达了美洲,葡萄的种子才从欧洲输入美洲。威宁等人却证明,在欧洲人未到美洲以前,美洲已经有野生的葡萄,就是《梁书》说的蒲桃。法国人房龙在一九三二年出版的《世界地理》中,也说欧洲人初到美洲时,称美洲为“外因兰”,意思就是“葡萄洲”,因为那里出产一种葡萄,可以用来酿造美酒。

还有的人说,美洲没有马,后来西班牙人才把马运到美洲去。但是,动物学家根据地下挖掘的动物骨骼,证明美洲在远古时期曾有马类生存。可能在欧洲人到达美洲以前一千年的慧深时代,墨西哥一带仍然有马也未可知。

在墨西哥出土的许多碑刻中,有一些人像与我国南京明陵的大石像相似。还有的石碑有一个大龟,高达八英尺,重二十吨以上,雕着许多象形文字。据考古家判断,这些显然都受了中国古代文化的影响。

苏联科学院出版的《美洲印第安人》一书,还证明古代的墨西哥和秘鲁等地,“会熔炼金、银、白金、铜以及铜和铅的合金――青铜,却没有发现任何地方会炼铁的”。这一点与《梁书》的记载也完全相符。

《梁书》上面本来还有一段文字写道:“其国法有南北狱。若犯轻者入南狱,重罪者入北狱。有赦则赦南狱,不赦北狱。在北狱者,男女相配,生男八岁为奴,生女九岁为婢。犯罪之身,至死不出。贵人有罪,国乃大会,坐罪人于坑,对之宴饮,分诀若死别焉,以灰绕之。”前次我删节了这一段文字。现在看了威宁的材料,才知道墨西哥的风俗恰恰也是这样。

最后恐怕有人会问,当时人们往来到底是走哪一条路呢?这正如房龙说的:“他们是由太平洋北部窄狭的地方航行来的呢?还是由白领海峡的冰上走过来的呢?还是远在美亚两洲间尚有陆地相连的时代便过来的呢?――这些我们全不知道。”然而,他实际上做了三种可能的假设。或许古代的中国和扶桑国之间的交通是三种情形都有,这也未可知。

木下 国夫・藤井義則 校正
燕山夜話 第2集2話(通算32話)“扶 桑”小 考