燕山夜話

 

第2集 第5話 呉漢は妻を殺していない

第2集 第4話 広陽学派

第2集 第3話 慧深の国籍から説く

第2集 第2話 “扶桑”小考 

第2集 第1話 アメリカ大陸を発見したのは誰か

第1話-30話 “批判”正解

第1集-29話 最先端の思想

第1集-28話 磨き上げた金貨 

第1集-27話 二廟の興廃について 

第1集-26話 卵一個が家産 

第1集-25話 塞ぐより開く方が賢明 

第1集-24話 起死回生

第1集-23話 爤柯山物語の新解釈

第1集-22話 植物中の鋼鉄

第1集-21話 木に米がなるか?

第1集-20話 宇宙航行の最古伝説

第1集-19話 労動力愛護の学説

第1集-18話 『三十三鎮神頭図』を論評する

第1集-17話 賓客接待の礼儀作法

第1集-16話 志気を説く

第1集-15話 幼児の心を大切にせよ

第1集-14話 生まれたての子牛は虎をおそれない

第1集-13話 “無”の“芸術” 

第1集-12話 習字は大胆に

第1集-11話 三から万へ

第1集-10話 ちょぴりは どっさりに勝る

第1集-9話 秘訣不要の秘訣

第1集-8話 楊大眼の耳読法

 第1集-7話 三分詩七分読

第1集-6話 賈島の創作態度

第1集-5話 北京労働者はじめてのデモ行進

第1集-4話 三不知

第1集-3話 歓迎”雑家“

第1集-2話 不 怕 天

第1集-1話 生命の三分の一

「燕山夜話」について

 「燕山夜話」の書名や作者の鄧拓(1912~1966)は文化大革命の初期に毛沢東・林彪・四人幇からの批判の対象としてセンセーショナルに報道されました。「大毒草」とされた書名や著者の名前だけが独り歩きをし、文革の嵐のあとは振り向かれないままでした。鄧拓の名誉回復のあと1979年に北京出版社から丁一嵐(作者夫人)の前書きを付けた形で、「燕山夜話」の再版がなされました。全五集150余編の文章を一冊の本として編まれ、知的な風貌の写真と肉筆の自序が巻頭にあります。
 福州に生れ、早くから党員活動を行い、解放区に入ってからは新聞発行や情宣活動に従事。新中国では「人民日報」の責任者になるも、大躍進政策前後から毛沢東との関係が微妙に捻じれていったようです。その中で、夕刊紙「北京晩報」に「燕山夜話」と題したコラムを馬南邨の筆名で連載(一説には毛沢東の慫慂)して好評を博したことが「右傾批判」の材料にされました。題材は歴史・文学から地理・天文・農業・民俗・風水など多岐に渡り、多くは古文を巧みに引用して同時代の政治や社会を諷刺しています。(井上邦久)

「両点説明」 第1集の序として

 第1集の本編に先立って、作者の説明が二点だけ書かれています。1961年7月10日出版の前日に敢えて注意を呼び掛けるように書いています。 
 ①「北京晩報」掲載の原文をほぼそのまま纏めた。掲載された文章の大多数をそのまま冊子にまとめた。
 ② 読者は党・政府・軍の幹部や教師や知識人であることを知っているが工農兵(労働者・農民・兵隊)大衆向けに書く努力をしていきたい。
さりげなく当たり前のように書いていますが、かなり深い意味があると考えます。夕刊紙掲載時の初出を検証していませんので、作者の言葉をそのまま伝えます。

訳者ご紹介

北 基行(きた もとゆき)氏

 1935年生まれ。1957年 神戸市外国語大学中国語科卒業。中国友好商社に勤務後、豊田通商に入社。66―77年シンガポール・マレーシアに11年間駐在し、マレーシア華人らとのビジネスを通じて華人経営を学ぶ。
 日本に帰国後、中国担当となり79−80年同社の初代北京事務所長。その後、中国・香港台湾地域担当部長を経て95年定年退職。95−97年同社嘱託を経て97年に貿易商社「神陽貿易(株)」を設立し代表。
 中国貿易のほか、トヨタ自動車系の部品会社の中国進出を支援、天津に日本料理屋を経営するなど多岐にわたる活動をしてきた。
 ビジネス以外では幼少の時から書道を続け中国独自の筆法を会得。中国古典の研究を続け、自宅で中国古典、書道の勉強会を主催しているほか、中国古典講読会の講師を務めている。(斎藤 治)